西村 賢太「随筆集 一私小説書きの弁 (新潮文庫)」 ★★★☆☆


西村 賢太「随筆集 一私小説書きの弁 (新潮文庫)」

あとがきで、賢太自身が「アル中の一私小説書きの、とりとめのないクダ話」と位置付けているのが本書です。
これがまた面白い。

内容は賢太があちこちに書いたエッセイや解説などの再録なので、清造に関してはもういいよっていうほど何度も同じ話が出てくるし、誰やらの本の解説が突然出てくるのでその本がどんなものか気になるし、色々と気が散るのですが、今まで読んできた賢太の「私小説」ではなく、「私小説家であるところの賢太自身」が書かれているのがおもしろい。

賢太の小説で「根が○○にできている私は」という表現が何度も出てくるのですが、これがかなり私のツボです。
今回の随筆集にも何度も出てきて、そのたびに笑ってしまいました。本作で気づいただけでも

・根が厚顔な私は
・根が未練にできている私は
・根がどこまでもスタイリストにできているところの私であれば
・私は根が随分と厭き性にできており、

と、出てくる出てくる。
だいたい自分の悪行や、見得や嫉妬による復讐などの言い訳めいたことに使われるのですが、ほんまに最悪やな、と毎度笑ってしまいます。
そういえば先日読んだ清造の「根津権現裏」にも同じ表現ありました。



清造の再評価を生きがいとしている賢太は、どういう思いで自分でも小説を書いているのか、と常々不思議だったのですが、なんとなくその心象風景も読み取れました。
大雑把に言うと、彼は浅薄なフィクション小説にものすごい嫌悪感を感じているようで、そのフィクション小説家たちがもてはやされたり、読者や出版社が喜んだりするのを、吐き捨てたいくらい軽蔑しているようです。

わずかにこれらの作中には、作者の頭の中だけで、観念だけで暴力を語ったり、登場人物を都合よく動かしたりしてる部分が微塵もないところに、当今のバカな読者やバカな評者、編集者なぞがよろこびそうな小説よりも、いくらかマシな面がなかろうかとの思いもなくはないが、これは他の鑑賞眼の全てに、良しとしてうつるものでもあるまい(もっとも私個人は、こと小説に関しては、ただ才に任せただけの観念の産物よりも、その作者自身の地と涙とでもって描いてくれたものでなければ、まるで読む気もしないし書く気も起こらぬが)。(「『どうで死ぬ身の一踊り』跋」より)

そういう、賢太から見るとヌルく幼稚な読書人が多勢を占める世間では「大正期の私小説」なんて、清造その人と同じように、軽蔑さえされず忘れ去られているのが現実ですが、そこにそういう人々が目を覆い罵倒を浴びせざるを得ないくらい下劣強烈な内容とタイトルの私小説を暴露することによって、清造という存在、私小説という存在、ひいては自分自身を、無いこと同然の存在から、「有」しかも「異形の者」として屹立させる、それを目的としているのではないか、と感じます。

それに魅力を感じる我々も、普段はないことにしているある種私小説的なもの、つまり自分の中の暗部とその奥にある膿汁を、賢太に首根っこを掴まれて覗かされる、そういう魅力にハマっているということなのですが、賢太がさらに魅力的なのは、そこに諧謔的な笑いのツボが多々あることが理由のように思います。
悲惨なのに、笑ってしまうのです。

  1. スジャータさんにこんなにちゃんと読んでもらえて、賢太は幸せ者だね!
    「根がどこまでもスタイリストにできている私は」って面白すぎる。
    アンタどんだけ根があるわけーってつっこみながら読んでいたことを思い出しました。

  2. いやー、賢太は私が一銭も払わずに作品を堪能していることに憤慨すると思いますよ(笑)
    でも本書には、賢太がブックオフで本を買ってきて読んだ、という話もありましたね。
    ブックオフで本を買うということを臆面もなく書く小説家なんて、賢太だけでしょうね。

    「根が~」は毎度笑わされますね。あと、「ちと○○なのである」みたいなのも、「ちと」じゃないやろー!って突っ込みたくなります。

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