2012年 10月 の記事

鎌田 東二「超訳 古事記」 ★★★☆☆


鎌田 東二「超訳 古事記」

きっかけ=前々から読んでみたいと思っていた「古事記」を、代官山 蔦屋書店で購入。

つぎ、古事記です(笑)。お借りしている本がなくなると、どうしてもこちら方面のジャンルに偏ってしまう私。
これも昔から読んでみたかったのだけれど、なかなか手を出せていなかった一冊。代官山 蔦屋書店は1Fに「宗教書」コーナーがあり、古事記も何冊か品揃えがあったので、いくつか手にとってこちらを購入。タイトルに「超訳」とありますが、独自の解釈というよりは、表現として「詩」のような形式を用いている、というだけであり、逆に原作の意図に忠実だと感じました。


いやおもしろいです、古事記。美醜色欲エログロなんでも来いの大スペクタクルロマン!です。なんというか、神様の物語というのは、起承転結になっていないのがおもしろいのです。ええっそれで終わり!?いいのそれで!?みたいな物語の連続です。旧約聖書などでも、ええっいいのそれで!?みたいな物語が多いですが、多くは深刻で悲痛なエンディングであるのに対して、この古事記の、悲惨なのになぜかあっけらかんと明るいのはなんなのでしょうか。


たとえば伊邪那岐と伊邪那美の離婚話。火の神を産んで性器を焼き焦がし、我が身も焼き尽くして死んでしまった伊邪那美をあきらめきれず、黄泉の国まで追いかけていった伊邪那岐。ようやく会えた伊邪那美から、ここで待っていてください、決して探さないでくださいと言われたにも関わらず、待ちきれずに伊邪那美をさがし求めて暗闇を進むと、見るもおぞましい蛆虫だらけの腐乱死体となった妻の姿を見つけてしまう。逃げに逃げる伊邪那岐を、ものすごい憎悪の塊になって追いかける伊邪那美の大迫力。

追って 追って 追って 追いついて
夫をつかみとり 引き裂き 食い殺してしまいたい
伊邪那美の愛は 強い憎しみに 変じた
その怒りの 炎に包まれた
妻の姿を振り返り 見るつど
伊邪那岐は 震え上がり
さらに速く 駆けに駆けた(p.42)

それで、逃げている伊邪那岐が、走りながら自分の髪飾りや櫛をうしろに投げると、それが葡萄や竹の子に変わり、伊邪那美と共に黄泉の国から追いかけてきた女たちがそれにつられて食べている間にさらに逃げます。恐怖の逃走の場面で、なんでいきなり吉本新喜劇みたいなことが起こるのでしょう。そしてとうとう伊邪那岐は黄泉の国から抜け出し、大きな岩でこの世との通路を塞ぐと、伊邪那美は恨みを述べます。

「あなたは わたしに恥をかかせた
そのため わたしは
あなたの国の 生まれてくる子どもを
一日に千人 殺してしまいます」(p.45)

これに対して伊邪那岐は、それならわたしは一日千五百人が生まれる産屋を建ててみせるといい、これにて夫婦は絶縁、伊邪那美はひとりさびしく黄泉の国に帰ってしまいます。


なんか・・・ひどい結末じゃないですか!?日本の国土や大切な神様をたくさん作った二人が、もうひとかけらの愛も情けも未練もない、呪いの言葉をお互いに吐きあって絶縁し、妻はしょんぼり黄泉の国に追いやられるなんて・・・。これが日本の国土を作った神様ですよ、いいんですか(笑)


こんな物語が満載です。しかも、なぜか男性の主要な神様は、揃って虚弱体質のマザコン男で、色々な経験を経て強く賢い男に成長してゆきます。


あと有名なシーンで、天の岩屋戸に隠れた天照大神を呼び戻すために、神様が揃って岩屋戸の前でお祭りをするのですが、そのクライマックスの天宇受売命のダンスの描写は圧巻で、官能の極みです。サロメを超えるエクスタシーです。古代、きっと古事記は奉納という形であれ、さまざまに演じられてきたと思いますが、この場面はどのような巫女が法悦の表情で踊り狂ったのだろうかと想像するとウットリしてしまいます。


日本の神社の由来を知るためにも、一度は読んでおきたい「古事記」。読みやすくかつ原典を大事にしていると感じられる本書は、日本人なら万人にオススメの一冊です。

「新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)」 ★★★★☆

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

きっかけ=浄土真宗への興味からネットで購入。

読もうと思いつつ手が出せていなかった「歎異抄」。理由のひとつに、どれを読めばいいのかよくわからない、というのがあったのですが、いろいろと書評などを見て、結局こちらを購入。選んでよかった、そして、読んで本当によかったです。以下、大変長々としたレビューになりますが、ワタシの発見と理解を書き留めたく、なにとぞご容赦ください。



まず、「歎異抄」って親鸞が書いたものじゃないんですね。そんなことさえ知らなかった私。。。著者は親鸞の門弟のひとり、唯円であるという説が有力らしい。そして、「歎異抄」とは、「親鸞が説いた『真実の教え』ではない、『意義の教え』を嘆いた書付け」とでもいう意味です。内容は前編、後編にわかれていて、前編では親鸞から直接受けた『真実の教え』を語り、後編ではその真実の教えにそむく『意義の教え』を挙げ、親鸞の発言を拠りどころにして批判しています。これは本当によくできた構成で、前半で浄土真宗の本義の知識を得た上で、後半の意義への批判を知ることにより理解が深まります。

浄土真宗の教えでもっとも有名な一説は、「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものでしょう。前編の第三条冒頭に出てきます。現代語訳では「善人でさえ浄土に行けます。まして悪人が行けないことはありません」となります。反対じゃなくて?そう、反対ではないことが、浄土真宗が浄土真宗である意味です。

この一説を、言葉では理解し、意味も断片的な知識でなんとなく飲み込んではいましたが、やはり最後のところで何か腑に落ちない、しこりのようなものがずっとありました。「『悪人』というのは普通に我々が考えるところの『悪人』ではなく、自分のことを『悪人』だとわかっている人のことだ」というような解説をよく聞きますが、親鸞はそういうことを言っているのではなく、本当に悪人を救うと言っているのでないか、と漠然と感じていました。それが、「歎異抄」を読んで、やっと本当に理解できたように思います。

世間の人は普通には、つぎのようにいいます。「悪人でさえ浄土にいけるのだから、善人が行けるのはあたりまえである」と。この考え方は、一応もっとものようですが、阿弥陀さまのお救いの趣旨に反します。
その理由は、自分の努力で善い行いをつみかさねて浄土に生まれようと心がける人は、阿弥陀さまのお力におすがりしようという心のない人ですから、阿弥陀さまに救われて浄土に行くことはできません。しかし、そういう人も、みずからの善をたのむ心をひるがえして、阿弥陀さまのお力におすがりしておまかせすれば、浄土に生まれることができます。
欲望をすてることができないわたしたちは、どのような修行をしても結局は不十分に終わり、迷いの世界をはなれることはできません。そのような人間をあわれにお思いになって、助けようという願いをおこされたのが阿弥陀さまです。ですから、阿弥陀さまの本意は悪人を救って仏にするためですので、ひたすら阿弥陀さまのお力におすがりする悪人こそ、まず浄土に生まれる資格を持っています。(p.79)

悪人をあわれみ、悪人を救いたいというのが阿弥陀の本願だから、悪人がまっさきに救われるのは当然である、ということなのですが、そこから一歩踏み込んで、善人というのは自分の力で往生したいと考える者であるため、阿弥陀の救いはないこと、さらに、これから何度も何度も出てくるのですが、私なりの理解で言うと、『わたしはアホでバカで根性なしで自分勝手にしか考えられない悪人だから、阿弥陀さまに救われるに違いない』という考え方を一徹に突き通すことが、浄土真宗の本義である、ということがわかるのです。

誰でも自分のことを、少しはマシな人間だと思いたいのではないでしょうか。または、善いことをひとつづつつ積み重ねて、マシな人間になりたいと思っているのではないでしょうか。先祖を供養する、病人や弱者を助ける、そういうことを通じて、善い人間になりたい。浄土真宗はそういう人に対して、「そう思うなら、どーぞがんばってください。バカで根性なしの私にはとてもとても。比叡山の賢いお坊さんが自分の力で浄土に行くにはどうすればよいか教えてくれますから、そちらに聞いてください」と、突き放しているのです。

私の理解では、「悪人」とは「自分のことを悪人だとわかっている人」のことではなく、本当の極悪人も含めての「愚か者」であり、そのことを説く浄土真宗のお坊様は「自分を愚か者だと言える人」だと思います。

浄土真宗は、ご存知のとおり、「念仏」を薦めます。一度念仏すれば、阿弥陀がなんとしても浄土に行かせようと追いかけてきて、たとえ逃げても後ろからはっしと抱きしめて離さない、とまで言っています。この「念仏する」こと以外に「善行」はなく、さらに言うと念仏さえも「善行」ではありません。阿弥陀の働きかけにより、我知らずつぶやいてしまうもの、つまり「他力」です。「他力」とは、他(=阿弥陀)の力にすがることだけでなく、自らの力をあきらめ、たとえ善い事を積み重ねても報いはないと悟ることだということが、やっとわかったのです。究極にストイックな教えだと感じます。



わたしは禅宗のお寺に通っていたことがありますが、同じ仏教でも禅とは正反対の教えです。初めて禅寺で法話を聞いたとき、こういう話を聞いて感動しました。
・私たちは誰でも、仏様と寸分違わぬ、鏡のように澄み切った心を持っている。
・仏像に仏があると言って拝むのはおかしい。仏は自分の心にある。
・自分の本性はそのまま仏様と同じ。「自性本来清浄心」に目覚めなさい。
・自分の中に清浄心を見つけるために坐禅しなさい。
これは、親鸞から言わせると「自力で浄土に行こうとする人」のことです。


では仏教の教祖である釈迦はどう言ったのか。わたしも勉強不足で詳しくは理解していませんが、少なくとも阿弥陀さまにすがって念仏すれば浄土に行けるとは言っていないはずです。「阿弥陀さま」というのはどこから出てきたのでしょう。法然や親鸞が突然言い始めたことではもちろんなく、さまざまな経典にも登場します。このルーツを解明してみたくなってくるのはわたしの性なので、そのうち調べてみたいと思います。


さて話を戻して、わたしがこれまで疑問に感じていたことのもうひとつに、「本願ぼこり」があります。「本願ぼこり」とは、阿弥陀の本願に甘えてつけあがり、「念仏ひとつで浄土にいけるのだから、どんな悪いことをしても構わない」という解釈です。これについて親鸞はどう説明するのか、と前々から興味があったのですが、これがまたわたしにとってはコペルニクス的展開でした。歎異抄では、この「『本願ぼこり』」は悪い考え方である」という主張を、「嘆かわしい意義」としているのです。えええっ!!!じゃあ、念仏ひとつで浄土にいけるなら、どんな悪いことをしても構わないんですか!?


これに対する解説が深い。というか、非常に仏教的です。
わたしたちは善いことをしようと思っても簡単にはできない。同じように、悪いことをしようと思っても簡単にできるものではない。善いことができるのはその人の業(=宿命)であり、悪いことができるのもその人の業である。だから、人は「念仏ひとつで往生できるから悪いことができる」のではない。

願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。されば、よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに、本願をたのみまひらすればこそ、他力にてさふらへ。(第十三条)

(現代語訳)
阿弥陀さまの本願を誇り、それにあまえてつくる罪も、過去の多くの縁によるものです。だから、善い行いも悪い行いも、すべては過去の縁によるものと考えて、それにとらわれることなく、ひとえに仏さまの本願力をおたのみすることが、他力ということです。(p.98)

親鸞は、本当に、悪人こそを救いたかったのだと思います。平安末期から鎌倉時代初期、そのころの京都は戦闘や暴動が絶えず、度重なる飢饉で餓死にする人が後を立たず、道端には動物や人間の死体が転がっており、鴨川には打ち捨てられた死体から身ぐるみをはがすことを生計にして暮らしている人がいる。貧しい家族は、病気の年寄りに早く死んでほしいと思ったでしょうし、家族全員が飢えていたら、その年寄りを殺して食べたかもしれません。年寄りがいなければ、末の子だったかもしれません。そのような人々は、自分のような極悪人は地獄以外にいくところはないと思っていたでしょう。この世が地獄であればこそ、あの世の地獄もリアルに想像できたでしょう。親鸞はそのような、生きるためには悪をなさざるをえない、そういう人に、あなたは救われる、念仏ひとつで救われる、と信じさせたかったのではないでしょうか。



私の生家は真言宗で、浄土真宗の作法は知りませんが、位牌もなく、四十九日もせず、お盆もお迎えしない、と聞いたことがあります。亡くなったら即成仏できるのですから、そのようなものは必要ないのでしょう。しかし、必要ないと言われても、位牌もなくお盆の供養もなければ、どうやって死者とコミュニケーションを取ればよいかと不安を覚える人もいるでしょう。極めてストイックな教えだと、改めて感じます。

以上、長々としたレビューにお付き合いいただきありがとうございます。何年も前から読んでみたいと思っていた「歎異抄」。読んでしまえばするすると2時間もかからなかったと思います。これから読もうとする方のために、本書のオススメの読み方を書き付けて終わりとします。本書は「歎異抄」の原文と現代語訳が、併記でなく別々に掲載されています。まず最後の「解説」をざっと読んで、親鸞と歎異抄についての知識を得てから、最初に戻って原文、中ほどにある現代語訳を、一条づつ読み進めるとよいと思います。