カテゴリー : 05.人文科学

福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (訳) 「学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)」 ★★★☆☆

福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (訳) 学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

(歎異抄の前に、こちらのレビューがまだでした)

きっかけ=歴史モノに詳しいSさんからお借りして。

半年ほど前に「福沢山脈」「福翁自伝」を読み、せっかくなので(?)誰でも知ってる(でも読んだことはない)本書もお借りして読みました。
現代語訳ですので、サクサク読めます。訳者の解釈や色付けもほとんど感じなかったので、一応きちんと読んでおきたい、という方にピッタリです。

なんというかまあ、すごく新鮮です。この時代に書かれたものは、この時代の世相や息遣いを汲んで、自分自身がその時代で生きていることとして読む、と手続きを踏まないと、てんで時代錯誤なことをおっしゃっているように感じます。当たり前といえば当たり前ですが、やはり明治6年の新聞に載っていたような文章を読むと、その時代の空気がどういうものだったか、当惑とともにヒシヒシと感じます。

明治6年、約140年前です。はるか昔のようにも感じるけれど、曾祖父の時代と考えれば、その時代の価値観と我々の価値観の深い断絶に、物思わずにはおれません。「正義」とはその時代の相対的なものであると、改めて感じます。

福澤先生のおっしゃっていることが時代錯誤だとか、そういうことではありません。逆に、この時代にこれを言ったというのは、福沢諭吉はやはりすごいというか奇天烈な人だったんだなと感じます。

最初に、なぜ私は学問をすすめるのか、という理由が出てきます。例の、「天は人の上に人を造らず、~」という言葉から始まる一節は、結論としてこういうことをいいたいのです。

人は生まれたときには、貴賤や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ。(p.10)

当時、社会的な地位や貧富は「生まれた家」で決まる、と考えられていた時代に、「学問をすることで地位を向上させ、豊かになることはできる」と説いたわけです。これを啓蒙といわずして何をや。

ここでいう学問というのは、ただ難しい字を知って、わかりにくい昔の文章を読み、また和歌を楽しみ、詩を作る、といったような世の中での実用性のない学問を言っているのではない。(中略)いま、こうした実用性のない学問はとりあえず後回しにし、一生懸命にやるべきは、普通の生活に役に立つ実学である。たとえば、いろは四十七文字を習って、手紙の言葉や帳簿の付け方、そろばんの稽古や天秤の取扱い方などを身につけることをはじめとして、学ぶべきことは非常に多い。(p.11)
こういった学問は、人間にとって当たり前の実学であり、身分の上下なく、みなが身につけるべきものである。この心得があった上で、士農工商それぞれの自分の責務を尽くしていくというのが大事だ。そのようにしてこそ、それぞれの家業を営んで、個人的に独立し、家も独立し、国家も独立することができるだろう。(p.13)

「士農工商」ということばが出てきました。その制度がまだ生きている時代に書かれたことは本当に驚きです。しかも、世間の人は聞く耳を持たなかったのではなく、大ベストセラーになったのです。

当時は「学問」といえば、漢文を読み和歌を読み、といったことがいわゆる「学問」であったこともわかります。そんなものは今となっては「趣味」ですよね(笑)

そして福澤は、「個人が独立することで、家も独立し、結果として国家も独立することができる」、逆に、個人の独立がなければ国家の独立もない、ということを繰り返し繰り返し説いています。当時、いかに「個人」という意識が薄かったか、ということがわかります。家、親戚、土地の縁で、よく言えば連帯、悪く言えばもたれ合い、自分の力では何も変わらない、という空気が蔓延しているというか、当たり前だったのでしょう。当時、日本は独立した主権国家とは言えませんでした。自分の生き方と国家の独立とは何の関係もない、と思っている人が99%の世の中に、個人の独立なくしては国家の独立なし、と言い切った訳です。

このあと、「政府と人民は対等である」とか、「男尊女卑は不合理だ」とか、はたまた「保護と指図の範囲はぴたりとして寸分の狂いもあってはならない」とか、「忠臣蔵が称賛されるのはおかしい」とか、今の時代でも十分説得力のある持論が展開されています。忠臣蔵をこき下ろしていることなぞ、実に痛快ですね。

改めて、福澤諭吉という人はよほどの変わり者だったんだろうな、と楽しく想像するとともに、しかしこの時代に本書は空前のベストセラーになったのいうのだから、当時の日本人もなかなかセンスあるな、と感じた次第。

エイミー・チュア (著), 徳川 家広 (翻訳) 「最強国の条件」 ★★★☆☆

エイミー・チュア (著), 徳川 家広 (翻訳) 「最強国の条件」

きっかけ=歴史モノに詳しい友人S氏にお借りして(そのあと自分でも購入)。

「ものすごくよくできた卒論」という印象の本でした。
というと、なんだか偉そうで申し訳ないのですが、論旨は理路整然としてわかりやすく、大変おもしろかった一冊です。


まず、著者の強烈な個性に興味が沸きます。中国系アメリカ人の美しく知性的な女性で、イェール大学ロースクール教授。「著者あとがき」によると、中国の貧困な家庭に生まれながら、夢をかなえるために渡米した父と母の間に生を受けた同氏は、異常なほどのスパルタ教育を受けて育つ。家では中国語を話すことを強制され、少しでも英語の単語が口をついて出れば「お箸でぴしりと叩かれ」、学校の歴史論文コンテストで二位になった授賞式で、他の生徒が「万能生徒」のキワニス・クラブ賞を勝ち取った場にいた父親からは、ことあるごとに「二度と、あんな恥をかかせるな」とお説教される。そんな子ども時代を送った彼女は、その後ハーバード大学ロースクールを卒業、イェール大学の教授になるという晴れがましい経歴をたどる。

そんな彼女が二人の娘を持つと、またもや強烈な中国式スパルタ教育を行ったのだ。その赤裸々な体験記を「タイガー・マザー」という書籍に著し、全米で教育論議を巻き起こすベストセラーになったとのこと。この「タイガー・マザー」、かなり過激でおもしろそう匂いがするので、近々読んでみたいと思います。



さてさて、前置きが長くなりましたが、この著書の論旨は簡潔明瞭です。

「歴史上、同時代において他を大きく引き離し、一極優位の圧倒的な力を持つ『最強国』が何度か登場する」
「『最強国』であるための重要な要素は、『寛容さ』である」
「『最強国』が衰退する時期は、寛容さの喪失と期を一にしている」

彼女の定義する『寛容さ』とは、愛とか優しさとか慈悲とかそういう部類のものではなくて、国、人種、信仰の異なる人々に対して、社会的向上を目指すチャンスが(他国に比べて)開けていたか、ということです。

『最強国』というと、現代ではすぐに「アメリカ合衆国」をイメージするでしょう。90年代のような圧倒的支配力はなくなったとはいえ、今もアメリカの優位は変わりません。
古代からの歴史を紐解くと、ローマ帝国、唐、モンゴル帝国、近代になるとオランダ、イギリス、そしてアメリカが、いかにして『最強国』となったかを検証し(彼女の定義では、決定的に重要なのが『寛容さ』である)、さらに将来のポスト・最強国の可能性として、中国、EU、インドを検討している。また、最強国になれなかった原因について、ナチス・ドイツと大日本帝国の不寛容も挙げている。

洋の東西を問わず、古代から近現代、さらに近未来予測まで、『最強国は寛容である』というテーマでざっと紹介されるというのは、世界の昔から今までの総集編のベスト盤という感じで、そりゃあ面白くない訳がない。

信仰がすべての価値観と生活の中心になる中世以降に入ると、どの国も不寛容さが極限まで到達してしまいます。ユダヤ教徒や、キリスト教でもルター派などカトリック以外の教派の人は、残酷な処刑を受けたり、国を追い出されます。その中で、「ま、おとなしくしててくれれば、信仰は自由にやっていいですけど」という『寛容』な国があると、ユダヤ人やプロテスタントが続々となだれ込んできます。
それがオランダであり、次にイギリスであり、そして第二次世界大戦となると、ユダヤ人はアメリカに渡るしかない。結果的に、その国は優秀な人材を吸引し、他を引き離した経済力をつけることにつながってゆきます。


振り返って、今の日本。どんどん右傾化していっていますね。つまり『非寛容』です。しかし、そもそも日本は『最強国』になりそこなった国ですし、これからもそのポジションにはなり得ない、また目指さないでしょう。また、著者も認めていますが、『寛容さ』は、『最強国』の必要条件ではあれ、十分条件ではありません。これから日本はどのポジションを取り、日本人はどう生き延びるのか。改めて『寛容さ』だけでは立て直せないな、と感じた次第。


ちなみに、本書に出てくる『最強国』で、いちばん面白かったのは「唐」でした。わたしが学生時代きちんと勉強しなかったせいでほとんど忘れていたこともあり、えっそうだったっけと思ったのですが、太宗、玄宗の二代名君が治めたこの時代に、則天武后と楊貴妃が出てくるんですね。いやすごいですよ、則天武后。科挙制度を改革したんですね。愛人の四肢を切り落として酒樽に放り込んだことしか覚えてませんでした(笑)

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」 ★★★☆☆

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」

きっかけ=piyoにお借りして。

内田先生の代表作として、処女作「ためらいの倫理学」とともに挙げられることの多い本作、以前から一度読んでみたいと思っていました。

本書は2003年8月から翌年の3月までの、朝日カルチャーセンターでの講演録が元になっているらしいです。
この前に読んだ「最終講義」も講義録ですが、ブログ転載本よりテーマや文体に統一感があって、一冊読み終えたときに充実感があります。

内田先生の持論に、「人間は、埋葬することによって他の霊長類から分岐して人間になった」というものがあり、本書にも出てきます。
タイトルの「死」がコミュニケーションの磁場である、という意味がよくわかる一説を、ちょっと長いですが引用します。

他者とは死者のことです。
人間は死んだ者とさえも語り合うことができます。それは言語の準位ではないし、身体感覚の準位でもない。もうひとつさらに深いところにある回路で起きている出来事です。
人間は死者とコミュニケーションできる、あるいは「死者とコミュニケーションできると自分のことを考えた生物を人間と呼ぶ」と定義してもいいと思います。
ご存じのように類人猿と人類がわかれた指標のひとつは、霊長類のなかで人類だけが葬式をしたということです。四万年前に「死の儀礼」をもったことによって、人間は猿から人間に進化しました。ということは、人間の定義というのは「葬礼をするもの」だということです。葬礼をするということは、死者は物体ではないということです。死者は死んで「いる」わけです。まさにetre mort(エートル・モール)というかたちで、そこに死んで「いる」。
わたしたちが遭遇するいちばんの劇的な倫理的状況は、自分が目の前の誰かの首をしめてまさに殺さんとしている状況でしょう。そのときにわたしたちは「汝、殺すなかれ」ということばを聞き取る。でも、それはことばではない。それは死につつある人のさらに「向こう」からくるメッセージなんだと思います。死者からのメッセージ、死につつあるものからのメッセージ、つまりダイイング・メッセージを聞き取る能力が、人間の人間性を基礎づけている根本的な能力だと思います。(p.194)

なるほどですね。私たちは死者からのメッセージを聞くことによって、倫理的な判断をしているのです。
目の前にいる人に「なぜ人を殺してはいけないのですか」と平然と問える人がいたとしても、死者にそれを問う人はいないでしょう。


内田先生の「死」をめぐる考え方は、上の持論が基礎となっています。
では「身体論」については・・・これがなかなか論旨を定めることが難しいのですが、それも当たり前で、要は「脳でわかろうと思うな、身体でわかれ」とおっしゃっているわけです。

本も身体で読め。口で話していることだけでなく、非言語メッセージを身体で読み取れ。
脳で「わかった」と思ったことは、「わかった」と思った瞬間からスルリと逃げてゆく。だから身体でつかみ取るしかない。
「禅」と同じですね。偉いお坊様が書かれた禅の本を何冊読んでも、まず坐らなければ「禅」がわかったことにはならない。


内田先生は武道家でもありますが、時間をずらすことによってモノにする、という武道家ならではの視点が大変おもしろかったです。
今起こっていることを、自分だけ未来に時間をずらして捕らえ直すと、今起こっていることが過去になる。これができれば相手をモノにできる、というのです。

K-1の武蔵さんの挿話がおもしろいです。
内田先生が「K-1みたいなリアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどういう反応をするんですか?」と訊いたところ、「時間をずらして対処します」と即答されたとのこと。
時間をずらすというのは、相手からパンチを一発受けたその瞬間に、逆に自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」ことで、殴られている「今」を「過去」にしてしまって対処する、ということなのだそうです。
うーん、すごい。

少し前に読んだ池谷祐二さんの著書にも、脳は未来に時間をずらしてから現在を捕らえている、ということが解き明かされていますが、脳も身体も同じなんですね。このことを、池谷氏のように脳科学を突き詰めるという手段ではなく、自分自身の「身体感覚」を高めることで解明してしまった内田先生、やっぱり半端ないです。


ところで、装丁をみて、なんか前もこういう本読んだことあるな・・・と思ったら、「べてるの家の『非』援助論」と同じ。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」だったんですね。
同シリーズの他の作品のタイトルを見てみると、かなり魅かれます。「ケア学」「気持ちのいい看護」「感情と看護」などなど。
本書を同シリーズに入れたことといい、かなり斬新でアグレッシブな匂いがします、「シリーズ ケアをひらく」。注目したいです。

内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」 ★★★★☆


内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」

きっかけ=piyoにお借りして。

ちょい久々に、内田先生です。
書名の「最終講義」のとおり、神戸女学院大学の現役教授を退任されるにあたり、最後に壇上に立ってお話された講義録から始まり、その他5本の講義録を併せて一冊にしています。

やはり内田先生のライブ(講義)は、ものすごくパワーがあるのだと思います。講義録を読むだけでもビンビン伝わります。
一本勝負の緊張感。
毎度長い枕から、多くは唐突なたとえ話、そして徐々に主題に近づいてくる、と思ったら息抜き、そしてラストスパート、最後の落ちまで、まったく飽きさせないし、ライブを聞いている側のメンバー構成(学生だったり、同窓会のおばさまだったり、教育委員会のおじさまだったりする)によって、トーンを変えたりその場の空気を読んでの間合いも感じられます。

ブログ転載ものとは異なり、初めてウチダ節を聞く人がいるという前提で話が構成されているので、膨大なウチダ本の最初の一冊にもうってつけだと感じました。


計6本の講義録のうち、特におもしろかったのは以下の4本。

Ⅰ 最終講義(神戸女学院大学)2011年1月22日

これは正直、わたしが同校出身であることが理由で感慨深かったです。私が同大学2年生のときに内田先生は赴任されたらしいのですが、在学中はまったく存じ上げず、もちろん講義も受けなかったことが悔やまれてなりません。
しかし、内田先生自身の経験として語られている、入学式がキリスト教の礼拝形式で行われ賛美歌から始まったことに驚いたこと、茂洋チャプレンの祝福の言葉の宛先に自分自身が含まれていることを感じたこと、陰影深いヴォーリズ建築の隠し階段やトイレに驚いたこと、私自身も鮮やかに思い出すことができます。
本書のおかげで、あの大学を選び、卒業してよかったと、改めて(というか初めて)感じることができた次第です。


Ⅲ 日本はこれからどうなるのか?-”右肩下がり社会”の明日(神戸女学院教育文化振興めぐみ会講演会)2011年6月9日

この講義が行われた「めぐみ会」というのは、我が母校の同窓会ですが、笑うくらいすごい集まりです。
女学院卒業ということが大変なステイタスになった時代に生き、三代続いて女学院、というようなお家柄に誇りを持ち、今もそれをアイデンティティにされているご婦人がたくさんおられます。
もちろん私自身は縁がなく、会合なども一度も出席したことがありませんが、当時の学内にも「めぐみ会」の建物があり、品のよいおばさま方が大勢行き来されていたことを覚えています。
その「めぐみ会」の講演で、なんと「北方領土」のテーマから話し始める内田先生。やりすぎです(笑)

なぜ我々は北方領土問題について無知すぎるほど無知なのか、という切り口から、沖縄基地の核保有の可能性に言及し、と思うと母親と父親の育児戦略のちがい、自殺率は平和な時代に上昇する、教育立国をめざすべき、とまあ、言いたい放題でございます(笑)
この一章だけでもかなり読み応えがあります。「めぐみ会」の講義だけで終わらず書籍になってよかったなあーと、しみじみ思う次第です。


Ⅳ ミッションスクールのミッション(大谷大学開学記念式典記念講演)2010年10月13日

大谷大学とは、関西の人なら誰でも知っている仏教大学です。
内田先生の教育論がぎっちり詰まっている一章で、読み応えあると共に感動しました。

『教育というのは、「私にはぜひ教えたいことがある」という人が勝手に教え始める。聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。』(p.171)

学びたい人(つまり市場でいうところの「顧客」)のご要望に沿って、供給側である学校が教育内容を変化させるなど、内田先生に言わせれば本末転倒なわけですが、今はこちらの方が主流の考え方であることを鋭く指摘し、警鐘を鳴らしています。

『「ミッションスクールのミッション」というのは、要するに旗印を鮮明にするということです。特に宗教系の大学の場合、ここ数十年の間に建学の理念がだんだん希薄化していき、クリスチャンのミッションスクールでも、宗教儀礼や必修のキリスト教学をなくしていったり、礼拝の参加義務を緩和したり、入学式・卒業式から宗教色を払拭していったりする傾向があります。「だって、宗教色を払拭しないと、志願者来ませんから」ということを平然と言う人がいる。率直に言って、そういうことを言う人に、大学教育には関わって欲しくない。』(p.188)

『大谷大学もいいじゃないですか、このサイズではなくても。高々と旗印を掲げて、それで学生が減っていったら減っていったでいいじゃないですか。浄土真宗の学校なんか厭だなあというような学生に来てもらうこと、ないですよ。学生数が減ったら、減ったなりにダウンサイジングして、寺子屋みたいなものになっても構わないじゃないですか。教育機関の真の価値は財務内容でも在学生数でもなく、そこでどのような人間を生み出したかということで考量するしかないんですから』(p.188)

感動です。拍手喝さいです。
しかし大谷大学の先生方は、大変な人に講演をお願いしてしまいましたね(笑)
関西随一のミッションスクールとして、ぜひとも踏ん張っていただきたいと思います。


Ⅴ 教育に等価交換はいらない(守口市教職員組合講演会)2008年1月26日

内田先生の「教育に市場原理主義を持ち込むべからず」持論が、一章で簡潔にわかってよいです。
内田先生はずーーーーっとこのテーマにこだわって、色んなところで主張を展開されていますので、知っている人にはおなじみの内容ですが、内田先生の教育論はどれから読めばいいのと言われれば、この一章はピッタリだと思います。

というわけで、6本の講義録のうち4本が必読という、大変内容の濃い一冊でした。

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」 ★★★☆☆

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」

きっかけ=ちょうど『これからの「正義」の話をしよう』を読んでいるときに、書店の平台に新刊書として山積みされていました。これは読まねばと購入。

引き続き、サンデル氏の著書です。
『これからの「正義」の話をしよう』と比べると、本の装丁や厚みはほとんど同じなのに字は倍くらい大きいので、文量は半分くらいでしょう。でも価格は100円しか変わらない(笑)。出版社の戦略に乗ってしまいました。

(以下、Amazon.comより引用)

結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。
(本文より)

私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引になんら問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。
だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。

本書で、注目した視点は2つあります。
ひとつは、「財」を「善」と言い換えている、すなわち「善」は「ある社会にとっての財産(つまり価値そのもの)」である、ということです。
はじめのうち、「財[善]」と注釈をつけていますが、後半で読者が慣れてくると、単に「善」としています。
「財産」というと「お金」というようなイメージが付きまとうので、最初は違和感があるのですが、氏が言いたいのは、「財」とはその社会にとっての「善」であるからこそ「財(つまり価値)」でありえる、という前提に則って議論を進めましょう、ということだと思います。
ふたつめは、「お金で買う」ことによって生じる堕落を、「腐敗」と表現していることです。

われわれは、腐敗というと不正利得を思い浮かべることが多い。だが、腐敗とは賄賂や不正な支払い以上のものを指している。ある財[善]や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(p.53)

事例として、北極圏に住むイヌイットが特別に認められているセイウチ猟の権利をハンターに売ることについて、氏はこう記しています。

イヌイットが自分たちに割り当てられたセイウチを殺す権利を外部の人間に売れば、そもそも彼らのコミュニティーに認められた例外扱いの意味と目的が腐敗してしまう。イヌイットの暮らしに敬意を払い、昔から生活の糧としてきたセイウチ猟を尊重することと、その特権を、片手間に動物を殺す現金利権へ変えてしまうことは、まったく別なのだ。(p.123)

「財=善」を売るということは、二重の意味での問い立てが発生します。
まず、その売ろうとしている「財」は、本当に自分の(または社会の)所有物か、と問い。
たとえば、自分の体は自分の所有物か。当たり前だ、という考え方と、体は所有物ではない、という考え方。
次に、その財を売ることは、財の持つ本来の価値を貶めるものではないか、という問い。
自分の体に値段を付ける少女は、自分に価値をつけているつもりで、貶めているのではないか。

たとえば、地方自治体が、財政難だからといって、安易に公共施設や駅の「命名権」を売る行為。
渋谷公会堂が「C.C.レモンホール」になったとき、なんじゃそれはと思ったのは私だけではないでしょう。
その場所で忘れられないコンサートを見た人も、その舞台に立った人も、貶める行為です。
渋谷公会堂を自分たちの所有物だと考えている渋谷区さんにも、ぜひ本書を読んでいただきたいものです。


本書にはこれらの基準を問う、多くの事例が挙げられています。
市場原理主義に浸かりきって、教育の場にまで持ち込まれても何も感じなくなった我々は、目を覚ます必要があります。
小学校の授業に銀行の人がやってきてお金の話を教える。これを賞賛する学校と親がいる。私には狂っているとしか見えない寒々しい光景ですが、ほとんどの大人がこれを支持しているのが現実です。
さきほど挙げたような「命名権」も、最近はあまり奇妙だと感じなくなった自分自身に恐ろしさを感じます。


冒頭のメッセージ「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。」という言葉は、とても深いと思います。
「共生」は、「市場」と対の意味をなします。「市場」は個人主義のことであり、「共生」は寄り添って営むもの。
「市場」の価値を求めると、「共生」の価値は減じる。

「市場原理主義」の価値観が浸透しきって、「共生」が限りなく無価値なものになっている今、もう一度「お互いに迷惑をかけ、かけられる、面倒な共生関係を引き受ける」ことの価値を、氏は本書を通して我々に問いかけています。

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」 ★★★★☆

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」

きっかけ=piyoにお借りして。

久々に、真っ芯から哲学的な問い立てをしている本を読みました。
タイトルが「正義」ですよ。

齢四十を越え、この世の中に「これが正義である」というようなものがあるとすれば、大きな勘違い以外の何者でもないということを、投げやりでも諧謔でもなくそう本当に思っている訳でして、
そこに「正義の話をしよう」などと言われると身構えること甚だしく、自分だったら決して手に取らない本だったと思います。
が、piyoの書評を読んで、これは読まねばならないぞと感じた次第。


政治哲学者でありハーバード大学教授であるマイケル・サンデル氏のことは、本書で初めて知りました。
2010年にNHK教育テレビで氏の大学講義録「ハーバード白熱教室」が放映されて日本でも有名になったということで、ぜひとも放映見たかったです、残念です。

本書では、いくつもの「それが正しいかどうか判断できない」という例が出てきます。
代理母出産は正義か?なぜ志願兵はよくて傭兵(または徴兵)はよくないと感じるのか?マイケル・ジョーダンの報酬は正当か?
これらを、「幸福」「自由」「道徳」の3つのアプローチから、我々が何を根拠に「正義」「非正義」と判断するのか、ひとつづつ丹念に紐解いてゆきます。

正義への三つのアプローチ

ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの-収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉-がどう分配されるのかを問うことである。公正な社会ではこうした良きもものが正しく分配される。つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うときである。

われわれはそうした問題をすでに考えはじめている。便乗値上げの是非、パープルハート勲章の受章をめぐる対立、企業救済などについて考えながら、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。(p.29)

・幸福の最大化--功利主義=最大多数の最大幸福が「正義」
・自由の尊重--自由至上主義(リバタリアニズム)=個人の自由な選択を最大限尊重することが「正義」
・美徳の涵養--共通善に基づく美徳の涵養や善良な行動が「正義」

読み進んでゆくと、いかに私たちの脳みそが、「功利主義」や「自由至上主義」という価値観で無意識に物事を捉え判断しているか、身にしみます。
私たちがごく自然に「正しい」と感じること、「気持ちいい」と感じることについて、丁寧に紐解いてゆくと、無意識のうちに「功利的」「自由主義的」に判断している。

サンデル氏が強調したいのは、3つ目のアプローチ方法、「美徳の涵養」つまり道徳的な正義の指針です。
しかし、「道徳的な判断を正義の指針としよう」というと、少し身構えませんか?
なぜかと考えてみるに、それは「個人の自由を損なう匂い」がするからですね。

「何をもって正義とするかは私自身の判断でしょ?道徳的って誰にとって道徳的なの?判断基準を統一にするのは危険、まるで宗教。」
そう言いたくなるとすれば、頭からどっぷり「自由至上主義」に浸かって生きているからです。。。


氏は本書でまず、功利主義の限界、自由至上主義の限界を語り、3つ目のアプローチ法を述べるにあたっては注意深く、イマヌエル・カントの「自律」の概念を解説した上で、最終章の「正義と共通善」に向けて持論を進めてゆきます。
カントの教えは初めて学びましたが、究極的にストイックですね。


大変内容の濃い一冊で、うまくまとめきれないのですが、私自身が三十代前半に疑問に思ったことの多くが言及されていると感じました。
昔疑問に思ったことというと、たとえば、私はこの右手を伸ばして何かをするとすれば、そうすることが「善」いと思ってそうするに違いないはずだが、「悪い」と思っていても右手を伸ばすことがある。
それは何かと考えると。。。「快楽」だな、と考えました。
たばこに手を伸ばすこの手は、「善」を求めているのではないけれど、「快楽」を求めているのだな、と(昔の話ですょ)。

私の中でずーっと、「善」の反対は「悪」ではなく「快」であり、選択の場面で、「快」ではなく「善」を選択できるか、というのが人生のテーマでした。
論語に、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」とありますが、そうか七十歳になると、快楽を求めても善になるのか、それなら七十歳になってみたいなあと思いました(今でも思っているし、楽しみ)。

・功利主義とは、「快」を求めることが「善」であり「正義」だ、という考え方であり、
・自由至上主義は、「快」でも「善」でも、どちらが「正義」か決めるのは私だ、という考え方であり、
・美徳の涵養は、「快」ではなく「善」こそが「正義」だ、という考え方です。

そういうことが、本書でもっともっと深みをもって、語られております。
哲学的な問いに興味のない方はこの世にいないと思います。ぜひ手にとって、考える機会に。

五月女 ケイ子「五月女ケイ子のレッツ!!古事記」 ★★☆☆☆


五月女 ケイ子「五月女ケイ子のレッツ!!古事記」

きっかけ=友人Kさんにお借りして

最近日本の神様にハマっているというKさんからお借りしました。
超シュールなマンガで古事記(上巻)を語っています。

古事記もいつかきちんと読んでみたいとは思っているのですが、マンガということもあり、非常に楽しく読みました。
有名な「稲葉の白ウサギ」や「天の岩屋戸」などのお話も出てきます。


各ページの下の方に、著者の五月女さんと「オロチ博士」とのやりとりがあり、これもおもしろいです。
例えば、イザナミが多くの神を産んだシーンのページには、

五月女「吐しゃ物や小便、大便からも神が生まれるなんて、すごい発想ですね?」
オロチ博士「大便や小便や吐しゃ物、体から出るすべてのモノが、イザナミの分身なのです。」

というような、オロチ博士の解説があります。


古代の神様を描いた書物は、古事記に限らずギリシア神話、旧約聖書の神様、ヒンドゥーの神様も、ものすごく身勝手で傍若無人、さらにアチラ方面しか考えていないような神様も数多く出てきますが、科学で世界を理解しようというモチベーションのなかった時代、因果不明で暴力的なこの世界と付き合っていくために、人間のの理解や常識をはるかに超えた神様のなせる仕業として、畏れ受け入れるしかなかったのだと想像します。


以前、ヒンドゥー教の聖典「マハーバーラタ」の一部、「バガヴァッド・ギーター」を読んだことがありますが、似たような印象を受けました。ギーターは物語であり哲学書ですが、おそらく古事記もきちんと読むと哲学に通じるのではないかと期待します。
改めて、近いうちに古事記の原典も読んでみたいと思いました。


※せっかくなので、8年くらい前に読んだギーターのレビューも、アップしておきます。