カテゴリー : 05.人文科学

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫) ★★★★☆

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

きっかけ=8年前くらいに読んで書きとめたレビューです。当時ガンディーにはまっていて、氏の座右の書とされている本書に興味を持ちました。


インドの二大叙事詩のひとつ「マハーバーラタ」の第六巻に編入されているこの有名な聖典を、私が手に取るきっかけとなったのは、ガンディーのギーター信仰である。
「ガンジー自伝」第五部「ギーター研究」では、「わたしにとって、ギーターは行為における不可欠の指針になった。それは、わたしの日常必携の辞典となった」とされている。


この聖典の主題はシンプルだ。
「この世に生きる我々は、定められた自分の職務を、結果を期待せずに、ただ行為のために行為することによって解脱できる。行為の結果は神に預け、成功・不成功に執着してはならない」。

つまり、究極の「無償の行為」を説くものだ。

さまざまな宗教書についてほぼ無知の私が、今わかる範囲でギーターおよびヒンドゥー教の特徴を並べると、以下のようになる。

・ 私たちのような普通の社会人が、特別な修行をしなくとも、自分の仕事をしながら解脱に近づけるのだという明快さ。

・ 自分の職務は予め定まっており、それを行うべしとする、カーストに立脚した教え。

・ よって、武士は人を殺すのが与えられた役割だから、たとえ人を殺しても罪にはならず、気にしなくてよいという教え。

・ ブラフマンは最高神であり、他の信仰の対象も実はブラフマンだという解釈なので、キリストもアッラーも本当は全部ブラフマンなんだ!ということになってしまう。

・ ヒンドゥーの信仰の形もさまざまだが、この考え方が源泉なのだろう。

・ しかし、他の信仰対象は最終絶対神ではないので、輪廻を繰り返す。
ブラフマンを信仰し一体化した人はもう生まれ変わらない(=安寧)というのが面白い。

・ 目指す境地は「無我、無私の状態」であり、仏教に非常に近い(当然といえば当然だが)。
「知識のヨーガ」は、仏教の「智慧」に当てはまると思われる。

・ 「放擲者(結果を求めず行為する人)」→「ヨーギン(行為の超越を成就した隠棲者)」→「ブラフマン(最高神)との一体化」と、解脱への到達過程を二段階に分けているのが特徴的。

この「神の歌」がオルガスムスに達するのは第十一章。
戦士アルジュナが、神であるクリシュナに真の姿を見たいと望み、クリシュナがそれに応えて神の姿を現す。

それは「多くの口と眼、多くの腕と腿と足、多くの腹を持ち、多くの牙で恐ろしい、あなたの巨大な姿」であり、「これら人間界の勇士たちは、燃え盛るあなたの口の中に入る。蛾が大急ぎで燃火に入って身を滅ぼすように、諸世界は大急ぎであなたの口に入って滅亡する」姿である。

恐れ慄き取り乱したアルジュナは、ひれ伏してもとの姿に戻ってほしいと願う。
すると、人間の温和な姿に戻ったクリシュナが、やさしく言う。
「私のために行為し、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意ない人は、まさに私に至る。アルジュナよ」。

この、究極の恐怖と柔和な旋律の対比により、神クリシュナにすべてを委ねるしかないという宿命が腑に落ちる。


この文庫本の読み方としては、まずp.18の家系図を見ながら、「まえがき」にあるマハーバーラタのあらすじを一気に読む。
登場人物が異常に多いがギーター本編にはほとんど関係ないので斜め読みで結構。
次に巻末の「解説」を熟読。
ようやく本編に入るが、再度「解説」をガイドにしながら読むとよい。
訳注は学問的な解釈方法についてなので見る必要はない。

広告

池谷 裕二「単純な脳、複雑な「私」」 ★★★★★

池谷 裕二「単純な脳、複雑な「私」」

きっかけ=piyoにお借りして。

本当はもっと前に読み終わっていたのですが、なかなか自分で納得できるレビューをかけないまま時間が過ぎてゆき・・・もう納得はあきらめて掲載します。
久々に、★5つの本と出会えました。



この前に読んだ「進化しすぎた脳」は、著者がNY留学中に、NY在住の日本人高校生を相手に連続講義をした講義録でしたが、本書は著者が帰国し、「あのような講義を日本でもやってみたい。それも出身高校で!」という著者自身の提案を実現したもの、だそうです。

今回、池谷氏の著書を3冊続けて読みましたが、本書が一番読み応えありました。(もしかすると3冊目だったので自分が慣れただけかもしれませんが・・・)
副題に「または、自分を使いまわしながら進化した脳をめぐる4つの講義」とありますが、この「自分を使いまわしながら」という点が非常におもしろく、「そうだったのか!」と「そりゃそうだ!」という気持ちが混ざったような感想でした。


どういうことかといいますと・・・
我々の脳は、生物として進化する過程において、この場合はこう認識してこう動いた方がよさそう、ということを繰り返して、今の認識・行動になっている、ということです。

つまり、今私たちが「見える=そのように存在している」と思っているものは、それが絶対的な存在のあり方ではなく、人間なら2つの目が、顔のこの位置にこういう構造でくっついていて、過去こういう風に識別するとうまく行動できた(敵から逃げられた、食物を獲得できた)から、このように見えるだけであって、これが4原色の昆虫だとまったく違う景色であり、まして超音波を認知しているコウモリにはどんな風に世界が感じられるだろう、ということです。
だから、「逆さメガネ」をかけると、最初は気持ち悪くて何もできなくても、1カ月もすればまったく問題なく日常生活を送れるようになる。

「僕らにとって、『正しい』という感覚を生み出すのは、単に『どれだけその世界に長くいたか』ということだけなんだ」
「もし自分の個人的な価値基準を、正誤の基準だと勘違いしちゃうと、それはいわゆる『差別』を生んでしまう。残念ながら、人間って自分の感じる世界を無条件に「正しい」と思いがちだよね。この癖には慎重に対処しないといけない。そう、謙虚にならないと。」(p.111)

サラリとおっしゃっていますが、ものすごく心に響く一言です。
さらにこの後、氏は自分が小1のときに描いた、日本だけが異常に大きく詳細に描かれた世界地図を取りだし、これは我々のモノゴトの捉え方とまったく同じだと喝破している。

「こうやって自分の知っていることを通じて世界が歪められている。」
「こういうのって、子どもの絵だから何だかおかしいけど、でも、よく思い返してみれば、僕らの大人の心だって、これと大差ない。」(p.118)

さらに続けて、「『正しい』は『好き』の言い換えにすぎない」という見出しになります。もう膝を打つしかないです。

「もう一歩踏み込んで言えば、『正しい』というのは、『それが自分にとって心地いい』かどうかなんだよね。」
「実際、普段の生活の中で、誰かに対して『それは間違ってるよ』と偉そうに注意するときって、その『間違ってる』を、『おれはその態度が嫌いだ』と言い換えても意味は同じだよね。」(p.120)

これを言われた高校生は、どう思ったでしょうね。
私が高校生だったら、そんなことはない、世の中にはやはり正義も悪もあり、間違っているものは間違っている、と思ったと思います(笑)
すぐ納得できる高校生がいたら怖いです。



これ、まだ前半部分です。
一番おもしろいのは第四章「脳はノイズから生命を生み出す」です。
泣きたいくらい、人間という存在が歪(いびつ)で支離滅裂であり、しかしその歪さ、支離滅裂さが、弱いシグナルを増発させたり、爆発的なエネルギー源になったりする、ということが解き明かされます。
本書の頁端にその歪さ(ノイズ)が想定外の結果を生むことがわかるパラパラマンガがあり、これも秀逸なプレゼンテーションです。


第四章の素晴らしさをお伝えするには私の筆が追いつかないのですが、本当に素晴らしい。
自分の脳みそが拓かれていく感じがします。脳みその解説を読んで脳みそが拓かれる(笑)


「おわりに」で、筆者は「今回のこの本は、私が出してきたすべての本の中で、いま一番思い入れがあって、そして、一番好きな本であることを、正直に告白したいと思います」と記しています。
確かに、本書には何やら奇跡的な輝きと躍動感がある、と感じました。

池谷 裕二「進化しすぎた脳 (ブルーバックス)」 ★★★☆☆

池谷 裕二「進化しすぎた脳 (ブルーバックス)」

きっかけ=piyoからお借りして。

著者がNY留学している際に、日本人高校生数人を相手に連続講義をしたときの講義録。
高校生たちと一緒に取り上げるテーマがとても、哲学的です。
「脳」をテーマとした禅問答、という印象を受けました。

ただし、禅問答の場合は、絶句したときは絶句したまま、それを積み重ねて禅の根本に近づくというアプローチを取りますが、
池谷先生の場合は脳科学研究者だけあって、絶句したままにせず、そこにある汎用的な定義付けをされます。
しかし池谷先生は、完全ではないがそれでも定義するなら、という前提での定義であり、定義だけでは説明できない現象については「科学ができることはしょせんここまでだよ」と割り切っています。
科学者として、とても真摯な態度だと感じます。

たとえば、「意識がある」ことの最低条件は、
(1)表現の選択
(2)ワーキングメモリ(短期記憶)
(3)可塑性(過去の記憶)
の3つとしています。
この3つなら、高度な知能を持つコンピュータが条件が揃ってしまうのでは?という突っ込みに対して、「そうだね、それが科学の限界だ」とサラリと答えます。
しびれますねー。

高校生に対する4回の連続講義のうち、第2回(第2章)が一番おもしろかったように思います。
この本は目次だけ見ていてもワクワクしますが、第2章には

「目ができたから、世界ができた」
「人間は言葉の奴隷」
「『悲しいから涙が出る』んじゃない」

などの小見出しがあり、このへんがとても共感しました。

私たちの見ているもの、感じること、思うことは、すべて限定・歪曲されているけれど、そのようにしか知覚できないし理解できない。
だからといって投げやりにもなりたくない。
自分が見ているもの、思うことが「正しい」のではなく、「偏っている」という前提で、それでも真実にアプローチしたいという情熱を持つ、
常にそういう態度を取りたいものです。

脳科学を追求すると、そういう哲学に行きつくんですね。
いや、何を追求しても、行きつくところはそういうことなのかもしれません。

池谷 裕二「脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)」 ★★☆☆☆

池谷 裕二「脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)」

きっかけ=piyoからお借りした一冊。

脳科学者、池谷祐司先生の「脳科学エッセイ」。
氏の著書は初めて手に取りました。いま二冊目「進化しすぎた脳」を読んでいるのですが、ちょっと読む順番を間違えたような気がします。先に「進化~」を読んだ方がよかったかな。

「脳はなにかと~」の方は、氏の専門である神経生理学やシステム薬理学を、おもいっきり週刊誌ネタまで引き下げたテーマに落として、エッセイとして語ってしまったという大胆不敵な一冊です。

どのくらい引き下げたかというと、Amazonの紹介文にこう書いてます。

「恋愛、ダイエット、不眠、ド忘れ、ストレス、アルコール…脳のすごさがわかった!」

確かにそういう内容もでてきます。が、アプローチとしては脳科学専門誌に発表されている最新の研究論文を挙げながら、例えば身近な例でいうと・・・ということで、不眠やら恋愛やらに絡めて解説する、という方法です。

この、「こうすればダイエットになる!」とか、「ストレスに効く!」というようなネタ自体が、ワタクシ苦手でございます。こういう、いかにもおばちゃんが喜びそうなネタに拒否反応が出るのです・・・きっと自分がもうちょっとマシな人間だと思いたいからです。しょうもないプライドが邪魔をするのでしょう。

このような「しょうもないプライド」を、どうやら池谷先生はお持ちではないようです。
最新の脳科学の研究からわかった最先端の知見を、こともあろうに「恋愛」やら「ダイエット」をテーマに解説するとは・・・おそらく専門家たちからは煙たがられる存在でしょう。しかし氏はそんなことは全く気にせず、どうしたら専門家の視点をブレイクスルーして、一般人(もっというと中高生)の、脳やこころに対する知的好奇心に応えられるか、ということを常に意識されているようです。

本書で初めて知ったことも色々とあるのですが、特に興味深かったのは「記憶」の構造です。脳へのインプット→記憶HDDへの保存、までは理解できますが、その保存したファイルを取りだして再生するときに「書き換え」や「消去」が起こるとは。「再生(つまり復習)」が「記憶の強化」には効果大、とだけ思い込んでいましたが、いいかげんな再生をすると、せっかく記憶したものが改ざんされたり消されたりするのですね。

あと、睡眠と記憶の関係性も興味深かったです。
一晩寝ると勝手に頭が整理されることは誰でも実体験で知っていることですが、レム睡眠の間に「起きている間のことを超早送り再生する」ことで記憶HDDに書き込んでいっている、ということは初めて知りました。おもしろいですねー。

このあと、氏の著書を何冊か読み進むことで、もう少し研究の中心部分に近づけたらと思います。
池谷先生、私と同い年です。写真を拝見すると、髪ボサボサの童顔に大きな黒ぶちメガネ、手にするマーカーで描いているのは詳細な脳地図、いかにも脳科学研究者ぽいです(笑)。
しかし、自身の研究に対する信念がよほど深いのでしょう、でなければこんな柔らかテーマで本は書けないと思います。

塩野 七生「マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)」 ★★★☆☆

塩野 七生「マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)」

きっかけ=以前うっかりマキアヴェッリの超訳本を読んでしまい、原典が気になっていたため、塩野さん厳選の語録を読んでみる。

まえがきに塩野氏がなぜ本書を上程したかを記したあとは、すべてマキアヴェッリのことばそのままを並べたのみ。
この選出と並び、太字の付け方が「塩野流」ということなのだろう。原典好きな私にはぴったり。

こうやって読むとまさに塩野氏の人物評価はマキアヴェッリ的だ。
政治とは何か、戦略(政略)とは何か、ということがこの本を読めばわかる。

それが国家存続のために必要な手段(たとえ裏切りであろうとも)であれば、眉ひとつ動かさずに実行できる人。
「君主にとっての最大の悪徳は、憎しみを買うことと軽蔑されること」「憎しみは、国民のもちものに手を出したときに生ずる。軽蔑は、君主の気が変わりやすく、軽薄で、女性的で、小心者で、決断力に欠ける場合に、国民の心中に芽生えてくる」

塩野 七生「日本人へ 国家と歴史篇 (文春新書)」 ★★☆☆☆

塩野 七生「日本人へ 国家と歴史篇 (文春新書)」

きっかけ=「リーダー篇」に続けて本書を読む。

リーダー篇と同じく文藝春秋連載のこちらは2006年10月~2010年4月掲載もの。
政権は小泉から安倍へのバトンタッチから始まり、民主党の事業仕分けまで。

小泉改革路線の熱が冷めた混迷期であり、塩野氏のイライラもMAXだが、「価格破壊に追従しない」や「仕分けされちゃった私」を読むと、ああ本当にこの人は保守的だな、私も保守派だけど、年齢の差もあろうが、ここまでではないな、と思うこともあった。

横道にそれるが、CDシングルの年間売上5位までを(人気投票権などが主目的の)AKB48が独占した今年は、名実ともに「CDが死んだ年」として日本音楽史に刻まれるであろうと予測しているが、その時代において、これまでも変わりなく誇りを持って「CD」という作品を作り続けるか、まったく違う価値観で「CD」を活用するか・・・どちらもアリだと思う。
塩野氏(や山下達郎)は前者のタイプであり、私も敬愛し支持するが、後者のタイプが出てきたときも聞く前から否定せず、まずは聞く耳のある人間でありたい。

話は戻るが、塩野氏の「戦争」や「武力」に対する本質的なコメントはいつも鋭い。
塩野氏の文章に親しむとともに、武力というものが歴史的にいかに権力と密接に関わってきたか(武力のない権力はないも同然)、武力はいかに質と量で換算可能なものか(善悪とは全く異なる、定量的なもの)など、私を含めた日本人はそういう認識が薄いことを痛感する。
暴力と武力はまったく違うものだが、その区別が私を含めた日本人はあまり明確ではない。

塩野 七生「日本人へ リーダー篇 (文春新書)」 ★★★☆☆

塩野 七生「日本人へ リーダー篇 (文春新書)」

きっかけ=半年前にAmazon購入してそのままだった本書を手に取る。

久々に塩野七生を読むと、この人と自分の思考回路がやっぱり似ていることに驚く、が、内田本を読みまくった後に塩野本を読むと、内容が薄いという印象が否めない。

なぜかと考えてみるに、塩野先生はいつも「人」を切り口に政治や外交について意見しており、「原則的にやらねばならないことは同じで、どの政権がやっても(つまり自民でも民主でも)同じであるが、すぐれたリーダー(および幹部)が長期的にやりぬいてこそ成果が出る」、という前提に立っている。
そのすぐれたリーダーとは、端的にいえば「戦争で勝つ」リーダーであり、すなわちユリウス・カエサルであり、小泉純一郎である。

しかし内田先生は「やらねばならないことは同じ」とはしない。
TPP問題、社会保障問題、市場原理主義への警笛、日米・日中関係について・・・それぞれについて彼の考えははっきりしており、誰がやるか、よりも、何をするか、を重要視している。

塩野先生も内田先生も、世事についての記述であっても「永きにわたってリーダブルなものを書きたい」という理想は同じのようだが、正直、塩野先生の2003年~2006年に書かれたこの書の内容は、「人」以外の切り口は旧いという印象。
いま同氏が同じテーマで書くとどうなのだろうか。(というか、やっぱり塩野さんは歴史モノがいいのかもしれない)

広告