カテゴリー : review

遠藤 周作「私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)」 ★★★☆☆


遠藤 周作「私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)」

きっかけ=書店でなんとなく。パラパラ読んでよさそうに思ったので。

キリスト教の作家として有名な遠藤周作氏ですが、著書は一冊も読んだことがありませんでした。本書の冒頭で遠藤氏はこう書いています。

=この本を読まれる方に=
皆さんは、キリスト教の本なんて嫌いでしょう。聖書も敬遠したくなるでしょう。
それを承知で、牧師でも神父でもない私が、こんな本を書きました。
(略)
私がかつて若かったころ、ひじょうに無味乾燥、荒唐無稽に思えた聖書を、その地点から皆さんと一緒に読んでみたいと思うのです。

おもしろいですね。
宗教というだけで偏見を持つ九割の日本人に対して、わたしもそうでした、その地点から一緒に読みましょうと呼びかけているのです。


本書は新約聖書に対する遠藤氏独自の解釈であり、信仰告白ともいえます。
教会で牧師さんが話す内容とは違いますし、場合によっては異端扱いを受けるような思想です。
キリスト教を信じる、ということは、イエスの行った数々の奇跡や、その復活について、「すべて事実である」とすることが根幹です。
しかし遠藤氏は、いわゆる水を酒に変えたとか、パンが無尽蔵に増えたとか、触れるだけで歩けるようになったとか、死者を蘇らせたとか、そういうことが「奇跡」なのではなく、本当の「奇跡」は別のところにある、と指摘します。


本当の「奇跡」とは何か。その疑問を解く鍵として、遠藤氏はイエスの死の前と後での弟子の変貌ぶりを指摘します。
あまり聖書になじみのない人でも、イエスの弟子がその死の前までは、イエスの教えを本当に理解していなかったことは知っているでしょう。
裏切り者のユダだけでなく12人の弟子全員、一番弟子のペトロさえも、イエスの逮捕の場面においては「わたしは知らない」と言い、イエスを見棄てて逃げたのです。
にも関わらず、その後弟子たちはまるで生まれ変わったかのように、迫害に耐えて主イエスの教えを広め、ほとんどが壮絶な殉教を遂げています。ペテロは逆さ磔刑、全身の皮を剥がれて死んだ弟子もいます。
このことを、遠藤氏は「聖書最大の謎」だと指摘しているのです。


この「聖書最大の謎」を、遠藤氏は独自の大胆な解釈をもとに、丁寧に紐解いてみせます。
ひとつひとつ解説をされると、そうとしか考えられないことばかりです。まさに目からウロコ、という感じです。
ここで謎解きをするのはもったいないので、ぜひ本書を手に取っていただきたいのですが、確かに今まで「ひじょうに無味乾燥、荒唐無稽に思えた聖書」が、この現代でも起こりうるリアルな物語としてムックリと立ち上がってきます。


遠藤氏は誠実にも、独自の大胆な解釈を披瀝した第2章のあとの第3章で、ある意味つまらない「現代日本人のキリスト教に対する誤解を解くための解説」をしています。なんとも人間くさいというか、子どものころからの彼の成長における、そして日常の生活における氏のキリスト教観がヒシヒシと伝わる一章です。バースコントロール、離婚、自殺についても丁寧に説明しています。


最後に、キリスト教とほかの宗教とのちがいについて、こう述べています。
「キリスト教は何の現世的な利益も与えない。母親が病気のこどものためにどれだけ祈っても子どもは死んでしまう。母親は『神も仏もないものか』と絶望する。その絶望の地点から、それでもなお、神の意味を認めるということ。」
ここまでの彼の著述で、「神の意味」とは「奇跡」のことであることがわかります。では「奇跡」とは何か。本書で「聖書最大の謎」を解き明かすことによって、それが浮かび上がってきます。

鎌田 東二「超訳 古事記」 ★★★☆☆


鎌田 東二「超訳 古事記」

きっかけ=前々から読んでみたいと思っていた「古事記」を、代官山 蔦屋書店で購入。

つぎ、古事記です(笑)。お借りしている本がなくなると、どうしてもこちら方面のジャンルに偏ってしまう私。
これも昔から読んでみたかったのだけれど、なかなか手を出せていなかった一冊。代官山 蔦屋書店は1Fに「宗教書」コーナーがあり、古事記も何冊か品揃えがあったので、いくつか手にとってこちらを購入。タイトルに「超訳」とありますが、独自の解釈というよりは、表現として「詩」のような形式を用いている、というだけであり、逆に原作の意図に忠実だと感じました。


いやおもしろいです、古事記。美醜色欲エログロなんでも来いの大スペクタクルロマン!です。なんというか、神様の物語というのは、起承転結になっていないのがおもしろいのです。ええっそれで終わり!?いいのそれで!?みたいな物語の連続です。旧約聖書などでも、ええっいいのそれで!?みたいな物語が多いですが、多くは深刻で悲痛なエンディングであるのに対して、この古事記の、悲惨なのになぜかあっけらかんと明るいのはなんなのでしょうか。


たとえば伊邪那岐と伊邪那美の離婚話。火の神を産んで性器を焼き焦がし、我が身も焼き尽くして死んでしまった伊邪那美をあきらめきれず、黄泉の国まで追いかけていった伊邪那岐。ようやく会えた伊邪那美から、ここで待っていてください、決して探さないでくださいと言われたにも関わらず、待ちきれずに伊邪那美をさがし求めて暗闇を進むと、見るもおぞましい蛆虫だらけの腐乱死体となった妻の姿を見つけてしまう。逃げに逃げる伊邪那岐を、ものすごい憎悪の塊になって追いかける伊邪那美の大迫力。

追って 追って 追って 追いついて
夫をつかみとり 引き裂き 食い殺してしまいたい
伊邪那美の愛は 強い憎しみに 変じた
その怒りの 炎に包まれた
妻の姿を振り返り 見るつど
伊邪那岐は 震え上がり
さらに速く 駆けに駆けた(p.42)

それで、逃げている伊邪那岐が、走りながら自分の髪飾りや櫛をうしろに投げると、それが葡萄や竹の子に変わり、伊邪那美と共に黄泉の国から追いかけてきた女たちがそれにつられて食べている間にさらに逃げます。恐怖の逃走の場面で、なんでいきなり吉本新喜劇みたいなことが起こるのでしょう。そしてとうとう伊邪那岐は黄泉の国から抜け出し、大きな岩でこの世との通路を塞ぐと、伊邪那美は恨みを述べます。

「あなたは わたしに恥をかかせた
そのため わたしは
あなたの国の 生まれてくる子どもを
一日に千人 殺してしまいます」(p.45)

これに対して伊邪那岐は、それならわたしは一日千五百人が生まれる産屋を建ててみせるといい、これにて夫婦は絶縁、伊邪那美はひとりさびしく黄泉の国に帰ってしまいます。


なんか・・・ひどい結末じゃないですか!?日本の国土や大切な神様をたくさん作った二人が、もうひとかけらの愛も情けも未練もない、呪いの言葉をお互いに吐きあって絶縁し、妻はしょんぼり黄泉の国に追いやられるなんて・・・。これが日本の国土を作った神様ですよ、いいんですか(笑)


こんな物語が満載です。しかも、なぜか男性の主要な神様は、揃って虚弱体質のマザコン男で、色々な経験を経て強く賢い男に成長してゆきます。


あと有名なシーンで、天の岩屋戸に隠れた天照大神を呼び戻すために、神様が揃って岩屋戸の前でお祭りをするのですが、そのクライマックスの天宇受売命のダンスの描写は圧巻で、官能の極みです。サロメを超えるエクスタシーです。古代、きっと古事記は奉納という形であれ、さまざまに演じられてきたと思いますが、この場面はどのような巫女が法悦の表情で踊り狂ったのだろうかと想像するとウットリしてしまいます。


日本の神社の由来を知るためにも、一度は読んでおきたい「古事記」。読みやすくかつ原典を大事にしていると感じられる本書は、日本人なら万人にオススメの一冊です。

「新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)」 ★★★★☆

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

きっかけ=浄土真宗への興味からネットで購入。

読もうと思いつつ手が出せていなかった「歎異抄」。理由のひとつに、どれを読めばいいのかよくわからない、というのがあったのですが、いろいろと書評などを見て、結局こちらを購入。選んでよかった、そして、読んで本当によかったです。以下、大変長々としたレビューになりますが、ワタシの発見と理解を書き留めたく、なにとぞご容赦ください。



まず、「歎異抄」って親鸞が書いたものじゃないんですね。そんなことさえ知らなかった私。。。著者は親鸞の門弟のひとり、唯円であるという説が有力らしい。そして、「歎異抄」とは、「親鸞が説いた『真実の教え』ではない、『意義の教え』を嘆いた書付け」とでもいう意味です。内容は前編、後編にわかれていて、前編では親鸞から直接受けた『真実の教え』を語り、後編ではその真実の教えにそむく『意義の教え』を挙げ、親鸞の発言を拠りどころにして批判しています。これは本当によくできた構成で、前半で浄土真宗の本義の知識を得た上で、後半の意義への批判を知ることにより理解が深まります。

浄土真宗の教えでもっとも有名な一説は、「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものでしょう。前編の第三条冒頭に出てきます。現代語訳では「善人でさえ浄土に行けます。まして悪人が行けないことはありません」となります。反対じゃなくて?そう、反対ではないことが、浄土真宗が浄土真宗である意味です。

この一説を、言葉では理解し、意味も断片的な知識でなんとなく飲み込んではいましたが、やはり最後のところで何か腑に落ちない、しこりのようなものがずっとありました。「『悪人』というのは普通に我々が考えるところの『悪人』ではなく、自分のことを『悪人』だとわかっている人のことだ」というような解説をよく聞きますが、親鸞はそういうことを言っているのではなく、本当に悪人を救うと言っているのでないか、と漠然と感じていました。それが、「歎異抄」を読んで、やっと本当に理解できたように思います。

世間の人は普通には、つぎのようにいいます。「悪人でさえ浄土にいけるのだから、善人が行けるのはあたりまえである」と。この考え方は、一応もっとものようですが、阿弥陀さまのお救いの趣旨に反します。
その理由は、自分の努力で善い行いをつみかさねて浄土に生まれようと心がける人は、阿弥陀さまのお力におすがりしようという心のない人ですから、阿弥陀さまに救われて浄土に行くことはできません。しかし、そういう人も、みずからの善をたのむ心をひるがえして、阿弥陀さまのお力におすがりしておまかせすれば、浄土に生まれることができます。
欲望をすてることができないわたしたちは、どのような修行をしても結局は不十分に終わり、迷いの世界をはなれることはできません。そのような人間をあわれにお思いになって、助けようという願いをおこされたのが阿弥陀さまです。ですから、阿弥陀さまの本意は悪人を救って仏にするためですので、ひたすら阿弥陀さまのお力におすがりする悪人こそ、まず浄土に生まれる資格を持っています。(p.79)

悪人をあわれみ、悪人を救いたいというのが阿弥陀の本願だから、悪人がまっさきに救われるのは当然である、ということなのですが、そこから一歩踏み込んで、善人というのは自分の力で往生したいと考える者であるため、阿弥陀の救いはないこと、さらに、これから何度も何度も出てくるのですが、私なりの理解で言うと、『わたしはアホでバカで根性なしで自分勝手にしか考えられない悪人だから、阿弥陀さまに救われるに違いない』という考え方を一徹に突き通すことが、浄土真宗の本義である、ということがわかるのです。

誰でも自分のことを、少しはマシな人間だと思いたいのではないでしょうか。または、善いことをひとつづつつ積み重ねて、マシな人間になりたいと思っているのではないでしょうか。先祖を供養する、病人や弱者を助ける、そういうことを通じて、善い人間になりたい。浄土真宗はそういう人に対して、「そう思うなら、どーぞがんばってください。バカで根性なしの私にはとてもとても。比叡山の賢いお坊さんが自分の力で浄土に行くにはどうすればよいか教えてくれますから、そちらに聞いてください」と、突き放しているのです。

私の理解では、「悪人」とは「自分のことを悪人だとわかっている人」のことではなく、本当の極悪人も含めての「愚か者」であり、そのことを説く浄土真宗のお坊様は「自分を愚か者だと言える人」だと思います。

浄土真宗は、ご存知のとおり、「念仏」を薦めます。一度念仏すれば、阿弥陀がなんとしても浄土に行かせようと追いかけてきて、たとえ逃げても後ろからはっしと抱きしめて離さない、とまで言っています。この「念仏する」こと以外に「善行」はなく、さらに言うと念仏さえも「善行」ではありません。阿弥陀の働きかけにより、我知らずつぶやいてしまうもの、つまり「他力」です。「他力」とは、他(=阿弥陀)の力にすがることだけでなく、自らの力をあきらめ、たとえ善い事を積み重ねても報いはないと悟ることだということが、やっとわかったのです。究極にストイックな教えだと感じます。



わたしは禅宗のお寺に通っていたことがありますが、同じ仏教でも禅とは正反対の教えです。初めて禅寺で法話を聞いたとき、こういう話を聞いて感動しました。
・私たちは誰でも、仏様と寸分違わぬ、鏡のように澄み切った心を持っている。
・仏像に仏があると言って拝むのはおかしい。仏は自分の心にある。
・自分の本性はそのまま仏様と同じ。「自性本来清浄心」に目覚めなさい。
・自分の中に清浄心を見つけるために坐禅しなさい。
これは、親鸞から言わせると「自力で浄土に行こうとする人」のことです。


では仏教の教祖である釈迦はどう言ったのか。わたしも勉強不足で詳しくは理解していませんが、少なくとも阿弥陀さまにすがって念仏すれば浄土に行けるとは言っていないはずです。「阿弥陀さま」というのはどこから出てきたのでしょう。法然や親鸞が突然言い始めたことではもちろんなく、さまざまな経典にも登場します。このルーツを解明してみたくなってくるのはわたしの性なので、そのうち調べてみたいと思います。


さて話を戻して、わたしがこれまで疑問に感じていたことのもうひとつに、「本願ぼこり」があります。「本願ぼこり」とは、阿弥陀の本願に甘えてつけあがり、「念仏ひとつで浄土にいけるのだから、どんな悪いことをしても構わない」という解釈です。これについて親鸞はどう説明するのか、と前々から興味があったのですが、これがまたわたしにとってはコペルニクス的展開でした。歎異抄では、この「『本願ぼこり』」は悪い考え方である」という主張を、「嘆かわしい意義」としているのです。えええっ!!!じゃあ、念仏ひとつで浄土にいけるなら、どんな悪いことをしても構わないんですか!?


これに対する解説が深い。というか、非常に仏教的です。
わたしたちは善いことをしようと思っても簡単にはできない。同じように、悪いことをしようと思っても簡単にできるものではない。善いことができるのはその人の業(=宿命)であり、悪いことができるのもその人の業である。だから、人は「念仏ひとつで往生できるから悪いことができる」のではない。

願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。されば、よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに、本願をたのみまひらすればこそ、他力にてさふらへ。(第十三条)

(現代語訳)
阿弥陀さまの本願を誇り、それにあまえてつくる罪も、過去の多くの縁によるものです。だから、善い行いも悪い行いも、すべては過去の縁によるものと考えて、それにとらわれることなく、ひとえに仏さまの本願力をおたのみすることが、他力ということです。(p.98)

親鸞は、本当に、悪人こそを救いたかったのだと思います。平安末期から鎌倉時代初期、そのころの京都は戦闘や暴動が絶えず、度重なる飢饉で餓死にする人が後を立たず、道端には動物や人間の死体が転がっており、鴨川には打ち捨てられた死体から身ぐるみをはがすことを生計にして暮らしている人がいる。貧しい家族は、病気の年寄りに早く死んでほしいと思ったでしょうし、家族全員が飢えていたら、その年寄りを殺して食べたかもしれません。年寄りがいなければ、末の子だったかもしれません。そのような人々は、自分のような極悪人は地獄以外にいくところはないと思っていたでしょう。この世が地獄であればこそ、あの世の地獄もリアルに想像できたでしょう。親鸞はそのような、生きるためには悪をなさざるをえない、そういう人に、あなたは救われる、念仏ひとつで救われる、と信じさせたかったのではないでしょうか。



私の生家は真言宗で、浄土真宗の作法は知りませんが、位牌もなく、四十九日もせず、お盆もお迎えしない、と聞いたことがあります。亡くなったら即成仏できるのですから、そのようなものは必要ないのでしょう。しかし、必要ないと言われても、位牌もなくお盆の供養もなければ、どうやって死者とコミュニケーションを取ればよいかと不安を覚える人もいるでしょう。極めてストイックな教えだと、改めて感じます。

以上、長々としたレビューにお付き合いいただきありがとうございます。何年も前から読んでみたいと思っていた「歎異抄」。読んでしまえばするすると2時間もかからなかったと思います。これから読もうとする方のために、本書のオススメの読み方を書き付けて終わりとします。本書は「歎異抄」の原文と現代語訳が、併記でなく別々に掲載されています。まず最後の「解説」をざっと読んで、親鸞と歎異抄についての知識を得てから、最初に戻って原文、中ほどにある現代語訳を、一条づつ読み進めるとよいと思います。

福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (訳) 「学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)」 ★★★☆☆

福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (訳) 学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

(歎異抄の前に、こちらのレビューがまだでした)

きっかけ=歴史モノに詳しいSさんからお借りして。

半年ほど前に「福沢山脈」「福翁自伝」を読み、せっかくなので(?)誰でも知ってる(でも読んだことはない)本書もお借りして読みました。
現代語訳ですので、サクサク読めます。訳者の解釈や色付けもほとんど感じなかったので、一応きちんと読んでおきたい、という方にピッタリです。

なんというかまあ、すごく新鮮です。この時代に書かれたものは、この時代の世相や息遣いを汲んで、自分自身がその時代で生きていることとして読む、と手続きを踏まないと、てんで時代錯誤なことをおっしゃっているように感じます。当たり前といえば当たり前ですが、やはり明治6年の新聞に載っていたような文章を読むと、その時代の空気がどういうものだったか、当惑とともにヒシヒシと感じます。

明治6年、約140年前です。はるか昔のようにも感じるけれど、曾祖父の時代と考えれば、その時代の価値観と我々の価値観の深い断絶に、物思わずにはおれません。「正義」とはその時代の相対的なものであると、改めて感じます。

福澤先生のおっしゃっていることが時代錯誤だとか、そういうことではありません。逆に、この時代にこれを言ったというのは、福沢諭吉はやはりすごいというか奇天烈な人だったんだなと感じます。

最初に、なぜ私は学問をすすめるのか、という理由が出てきます。例の、「天は人の上に人を造らず、~」という言葉から始まる一節は、結論としてこういうことをいいたいのです。

人は生まれたときには、貴賤や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ。(p.10)

当時、社会的な地位や貧富は「生まれた家」で決まる、と考えられていた時代に、「学問をすることで地位を向上させ、豊かになることはできる」と説いたわけです。これを啓蒙といわずして何をや。

ここでいう学問というのは、ただ難しい字を知って、わかりにくい昔の文章を読み、また和歌を楽しみ、詩を作る、といったような世の中での実用性のない学問を言っているのではない。(中略)いま、こうした実用性のない学問はとりあえず後回しにし、一生懸命にやるべきは、普通の生活に役に立つ実学である。たとえば、いろは四十七文字を習って、手紙の言葉や帳簿の付け方、そろばんの稽古や天秤の取扱い方などを身につけることをはじめとして、学ぶべきことは非常に多い。(p.11)
こういった学問は、人間にとって当たり前の実学であり、身分の上下なく、みなが身につけるべきものである。この心得があった上で、士農工商それぞれの自分の責務を尽くしていくというのが大事だ。そのようにしてこそ、それぞれの家業を営んで、個人的に独立し、家も独立し、国家も独立することができるだろう。(p.13)

「士農工商」ということばが出てきました。その制度がまだ生きている時代に書かれたことは本当に驚きです。しかも、世間の人は聞く耳を持たなかったのではなく、大ベストセラーになったのです。

当時は「学問」といえば、漢文を読み和歌を読み、といったことがいわゆる「学問」であったこともわかります。そんなものは今となっては「趣味」ですよね(笑)

そして福澤は、「個人が独立することで、家も独立し、結果として国家も独立することができる」、逆に、個人の独立がなければ国家の独立もない、ということを繰り返し繰り返し説いています。当時、いかに「個人」という意識が薄かったか、ということがわかります。家、親戚、土地の縁で、よく言えば連帯、悪く言えばもたれ合い、自分の力では何も変わらない、という空気が蔓延しているというか、当たり前だったのでしょう。当時、日本は独立した主権国家とは言えませんでした。自分の生き方と国家の独立とは何の関係もない、と思っている人が99%の世の中に、個人の独立なくしては国家の独立なし、と言い切った訳です。

このあと、「政府と人民は対等である」とか、「男尊女卑は不合理だ」とか、はたまた「保護と指図の範囲はぴたりとして寸分の狂いもあってはならない」とか、「忠臣蔵が称賛されるのはおかしい」とか、今の時代でも十分説得力のある持論が展開されています。忠臣蔵をこき下ろしていることなぞ、実に痛快ですね。

改めて、福澤諭吉という人はよほどの変わり者だったんだろうな、と楽しく想像するとともに、しかしこの時代に本書は空前のベストセラーになったのいうのだから、当時の日本人もなかなかセンスあるな、と感じた次第。

「親鸞 生涯と教え」 ★★☆☆☆

親鸞 生涯と教え

きっかけ=浄土真宗への興味から入門書を探し、ネット検索で見つけて購入。

変わった本を買ってしまいました。800円って安いな~と思いながら、でも「東本願寺出版部発行」ってことは、色気も何もない正統派だろうし、浄土真宗の教えを最初に学びたい人向けだろうと思って、ネットで購入しました。すると、これは教科書ですね。おそらく、大谷大学の中等部で授業に使われているのではないでしょうか。

内容は120ページほどで、親鸞の誕生から比叡山での修行を経て法然に帰依し、越後への流刑生活、関東での教化活動、そして京に戻って執筆を続け、入滅までを追う形で、親鸞の教えを語っています。


親鸞は西暦1200年頃、鎌倉時代に生きた人です。日本では最も信者が多い浄土真宗の開祖なので、なんとなくもっと後代の人のような印象があるのですが、生まれたのはまだ平安時代であり、そう考えると本当に昔々の人だなあと思います。親鸞の教え自体は脈々と受け継がれていても、親鸞その人自身のことはあまりわかっておらず、親鸞の妻・恵信尼が子どもたちに書き送った手紙などからわかることを元に、親鸞がどのような人生を送ったのか、綴られています。


中学生向け(おそらく)なので、かなり読みやすい内容及び文体ですが、流刑中の越後での生活の描写などは特にしっかりとした記述で、大人が読んでも考えさせられるものでした。

文字を読み書きすることも知らず、厳しい環境の中で、萌え出ずる雑草のように生きる人々の姿である。あるものは海や川で漁を行い、またあるものは田畑を耕して作物を育て、誰もがその日一日を必死に生きようとしていた。そのような姿を目にした親鸞は、あらためて人間が生きるということの厳しさを思い知らされたのである。そればかりか、生き延びるためにはたとえ悪事とされていることであっても、あえて行わなければ生きていけないという現実は、親鸞にとって大きな衝撃であった。(p.74)

なんとなく、この越後での流刑生活を経て、親鸞の教えが唯一無二のものになったのではないか、ということが想像されます。


教科書ならではのものとしては、途中にちょいちょい「視点」というコーナーがあって、「私たちは多くのつながりの中で生きている。親しい友だちとの関係もあれば、恋人との関係もあるだろう。(中略)何によっても壊れない確かな人間の関係は、どのようにしたら生まれるのだろうか。今一度考えてみてほしい。」というような文章が出てきます。ちょっと笑ってしまわざるを得ないのですが、まあ学校の授業ではこういうテーマで、話し合ったり文章を書いたりしているのでしょう。笑ってはいけませんね。


ありがたいことに、この一冊でだいたいの親鸞の人生はわかりました。というわけで、このあと、いよいよ「歎異抄」を読みます。

中野 京子「名画と読むイエス・キリストの物語」 ★★★☆☆

中野 京子「名画と読むイエス・キリストの物語」

きっかけ=たまたま本屋さんで見かけて、よさそうな気がして購入。

かつて通っていたキリスト教系の大学は、キリスト教について学ぶことが重要視されており、4年間の必修キリスト教学で聖書(旧約・新約)をひととおり学ぶことができました。でも、聖書に出てくる話は、断片的には知っていても、つながりを忘れてしまったり、すっかり忘れていることも多くて、改めて読んでみたいなあと思っていました。

本書は「名画と読む」と題されているように、目的が聖書の解釈を深めることではなくて、ヨーロッパの宗教画をより楽しみましょう、ということです。明快ですね~!こんな風に、誰それさんの解釈ではなく、スルリとそのままの物語を読めるものは、案外とありません。入門者向けのものになると、なぜかデアゴスティーニ風のカラーチャートや図解になって、見開き2ページでひとつのテーマごとに解説する、というスタイルになってしまうのはなぜなんでしょう。

「はじめに」で、本書の意図を説明し、地図をもとにイスラエルの風土、歴史、ユダヤ教、受難、当時の支配はローマ帝国であることなどの時代背景をサラリと説明したあとは、第一章はきっちり「受胎告知」から始まります。乙女マリアのもとに天使ガブリエルが舞い降り、彼女が神の子を身ごもったことを厳かに告げる。この「受胎告知」は、四つの福音書の中でもルカによる福音書にしか記述がないはずです。聖書にはあちらには記述があってもこちらにはない、または矛盾したことが書かれている、というものが数多くありますが、それらすべてを真実とするのがキリスト教なので、色々な解釈も生まれます。しかし、本書はそういう難しいことは横に置いて、とにかく聖書に記述があることで絵画のテーマになっていることを、流れに沿って淡々と物語ってゆく、というスタイルをとっています。

取り上げられている絵画はフラ・アンジェリコ「受胎告知」、ティツィアーノ「悔悛するマグダラのマリア」など、一度はどこかで見たことのある作品。欲を言えば、この絵画のサイズが小さいものも多かったので、ページいっぱいに掲載してほしかったかなーと。といっても普通の書籍サイズなので、大きくしてもそこまでですが。ま、ちゃんと見たい人は画集で見てね、ってことですね。

ひととおり読んで、久々に聖書を開く意欲も湧いてきました。宗教には興味が尽きません。しかし、いま興味があるのは新約より旧約聖書です。あの恐ろしい神と不可解な人間の行動、解釈も様々です。旧約を題材にした絵画も非常に多いので、著者の中野さんにはぜひ旧約版も書いていただきたいのですが、無理でしょうか・・・。旧約こそ、図解チャートみたいなものさえほとんど存在せず、困っております。

エイミー・チュア (著), 徳川 家広 (翻訳) 「最強国の条件」 ★★★☆☆

エイミー・チュア (著), 徳川 家広 (翻訳) 「最強国の条件」

きっかけ=歴史モノに詳しい友人S氏にお借りして(そのあと自分でも購入)。

「ものすごくよくできた卒論」という印象の本でした。
というと、なんだか偉そうで申し訳ないのですが、論旨は理路整然としてわかりやすく、大変おもしろかった一冊です。


まず、著者の強烈な個性に興味が沸きます。中国系アメリカ人の美しく知性的な女性で、イェール大学ロースクール教授。「著者あとがき」によると、中国の貧困な家庭に生まれながら、夢をかなえるために渡米した父と母の間に生を受けた同氏は、異常なほどのスパルタ教育を受けて育つ。家では中国語を話すことを強制され、少しでも英語の単語が口をついて出れば「お箸でぴしりと叩かれ」、学校の歴史論文コンテストで二位になった授賞式で、他の生徒が「万能生徒」のキワニス・クラブ賞を勝ち取った場にいた父親からは、ことあるごとに「二度と、あんな恥をかかせるな」とお説教される。そんな子ども時代を送った彼女は、その後ハーバード大学ロースクールを卒業、イェール大学の教授になるという晴れがましい経歴をたどる。

そんな彼女が二人の娘を持つと、またもや強烈な中国式スパルタ教育を行ったのだ。その赤裸々な体験記を「タイガー・マザー」という書籍に著し、全米で教育論議を巻き起こすベストセラーになったとのこと。この「タイガー・マザー」、かなり過激でおもしろそう匂いがするので、近々読んでみたいと思います。



さてさて、前置きが長くなりましたが、この著書の論旨は簡潔明瞭です。

「歴史上、同時代において他を大きく引き離し、一極優位の圧倒的な力を持つ『最強国』が何度か登場する」
「『最強国』であるための重要な要素は、『寛容さ』である」
「『最強国』が衰退する時期は、寛容さの喪失と期を一にしている」

彼女の定義する『寛容さ』とは、愛とか優しさとか慈悲とかそういう部類のものではなくて、国、人種、信仰の異なる人々に対して、社会的向上を目指すチャンスが(他国に比べて)開けていたか、ということです。

『最強国』というと、現代ではすぐに「アメリカ合衆国」をイメージするでしょう。90年代のような圧倒的支配力はなくなったとはいえ、今もアメリカの優位は変わりません。
古代からの歴史を紐解くと、ローマ帝国、唐、モンゴル帝国、近代になるとオランダ、イギリス、そしてアメリカが、いかにして『最強国』となったかを検証し(彼女の定義では、決定的に重要なのが『寛容さ』である)、さらに将来のポスト・最強国の可能性として、中国、EU、インドを検討している。また、最強国になれなかった原因について、ナチス・ドイツと大日本帝国の不寛容も挙げている。

洋の東西を問わず、古代から近現代、さらに近未来予測まで、『最強国は寛容である』というテーマでざっと紹介されるというのは、世界の昔から今までの総集編のベスト盤という感じで、そりゃあ面白くない訳がない。

信仰がすべての価値観と生活の中心になる中世以降に入ると、どの国も不寛容さが極限まで到達してしまいます。ユダヤ教徒や、キリスト教でもルター派などカトリック以外の教派の人は、残酷な処刑を受けたり、国を追い出されます。その中で、「ま、おとなしくしててくれれば、信仰は自由にやっていいですけど」という『寛容』な国があると、ユダヤ人やプロテスタントが続々となだれ込んできます。
それがオランダであり、次にイギリスであり、そして第二次世界大戦となると、ユダヤ人はアメリカに渡るしかない。結果的に、その国は優秀な人材を吸引し、他を引き離した経済力をつけることにつながってゆきます。


振り返って、今の日本。どんどん右傾化していっていますね。つまり『非寛容』です。しかし、そもそも日本は『最強国』になりそこなった国ですし、これからもそのポジションにはなり得ない、また目指さないでしょう。また、著者も認めていますが、『寛容さ』は、『最強国』の必要条件ではあれ、十分条件ではありません。これから日本はどのポジションを取り、日本人はどう生き延びるのか。改めて『寛容さ』だけでは立て直せないな、と感じた次第。


ちなみに、本書に出てくる『最強国』で、いちばん面白かったのは「唐」でした。わたしが学生時代きちんと勉強しなかったせいでほとんど忘れていたこともあり、えっそうだったっけと思ったのですが、太宗、玄宗の二代名君が治めたこの時代に、則天武后と楊貴妃が出てくるんですね。いやすごいですよ、則天武后。科挙制度を改革したんですね。愛人の四肢を切り落として酒樽に放り込んだことしか覚えてませんでした(笑)