カテゴリー : ★★★☆☆

遠藤 周作「私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)」 ★★★☆☆


遠藤 周作「私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)」

きっかけ=書店でなんとなく。パラパラ読んでよさそうに思ったので。

キリスト教の作家として有名な遠藤周作氏ですが、著書は一冊も読んだことがありませんでした。本書の冒頭で遠藤氏はこう書いています。

=この本を読まれる方に=
皆さんは、キリスト教の本なんて嫌いでしょう。聖書も敬遠したくなるでしょう。
それを承知で、牧師でも神父でもない私が、こんな本を書きました。
(略)
私がかつて若かったころ、ひじょうに無味乾燥、荒唐無稽に思えた聖書を、その地点から皆さんと一緒に読んでみたいと思うのです。

おもしろいですね。
宗教というだけで偏見を持つ九割の日本人に対して、わたしもそうでした、その地点から一緒に読みましょうと呼びかけているのです。


本書は新約聖書に対する遠藤氏独自の解釈であり、信仰告白ともいえます。
教会で牧師さんが話す内容とは違いますし、場合によっては異端扱いを受けるような思想です。
キリスト教を信じる、ということは、イエスの行った数々の奇跡や、その復活について、「すべて事実である」とすることが根幹です。
しかし遠藤氏は、いわゆる水を酒に変えたとか、パンが無尽蔵に増えたとか、触れるだけで歩けるようになったとか、死者を蘇らせたとか、そういうことが「奇跡」なのではなく、本当の「奇跡」は別のところにある、と指摘します。


本当の「奇跡」とは何か。その疑問を解く鍵として、遠藤氏はイエスの死の前と後での弟子の変貌ぶりを指摘します。
あまり聖書になじみのない人でも、イエスの弟子がその死の前までは、イエスの教えを本当に理解していなかったことは知っているでしょう。
裏切り者のユダだけでなく12人の弟子全員、一番弟子のペトロさえも、イエスの逮捕の場面においては「わたしは知らない」と言い、イエスを見棄てて逃げたのです。
にも関わらず、その後弟子たちはまるで生まれ変わったかのように、迫害に耐えて主イエスの教えを広め、ほとんどが壮絶な殉教を遂げています。ペテロは逆さ磔刑、全身の皮を剥がれて死んだ弟子もいます。
このことを、遠藤氏は「聖書最大の謎」だと指摘しているのです。


この「聖書最大の謎」を、遠藤氏は独自の大胆な解釈をもとに、丁寧に紐解いてみせます。
ひとつひとつ解説をされると、そうとしか考えられないことばかりです。まさに目からウロコ、という感じです。
ここで謎解きをするのはもったいないので、ぜひ本書を手に取っていただきたいのですが、確かに今まで「ひじょうに無味乾燥、荒唐無稽に思えた聖書」が、この現代でも起こりうるリアルな物語としてムックリと立ち上がってきます。


遠藤氏は誠実にも、独自の大胆な解釈を披瀝した第2章のあとの第3章で、ある意味つまらない「現代日本人のキリスト教に対する誤解を解くための解説」をしています。なんとも人間くさいというか、子どものころからの彼の成長における、そして日常の生活における氏のキリスト教観がヒシヒシと伝わる一章です。バースコントロール、離婚、自殺についても丁寧に説明しています。


最後に、キリスト教とほかの宗教とのちがいについて、こう述べています。
「キリスト教は何の現世的な利益も与えない。母親が病気のこどものためにどれだけ祈っても子どもは死んでしまう。母親は『神も仏もないものか』と絶望する。その絶望の地点から、それでもなお、神の意味を認めるということ。」
ここまでの彼の著述で、「神の意味」とは「奇跡」のことであることがわかります。では「奇跡」とは何か。本書で「聖書最大の謎」を解き明かすことによって、それが浮かび上がってきます。

鎌田 東二「超訳 古事記」 ★★★☆☆


鎌田 東二「超訳 古事記」

きっかけ=前々から読んでみたいと思っていた「古事記」を、代官山 蔦屋書店で購入。

つぎ、古事記です(笑)。お借りしている本がなくなると、どうしてもこちら方面のジャンルに偏ってしまう私。
これも昔から読んでみたかったのだけれど、なかなか手を出せていなかった一冊。代官山 蔦屋書店は1Fに「宗教書」コーナーがあり、古事記も何冊か品揃えがあったので、いくつか手にとってこちらを購入。タイトルに「超訳」とありますが、独自の解釈というよりは、表現として「詩」のような形式を用いている、というだけであり、逆に原作の意図に忠実だと感じました。


いやおもしろいです、古事記。美醜色欲エログロなんでも来いの大スペクタクルロマン!です。なんというか、神様の物語というのは、起承転結になっていないのがおもしろいのです。ええっそれで終わり!?いいのそれで!?みたいな物語の連続です。旧約聖書などでも、ええっいいのそれで!?みたいな物語が多いですが、多くは深刻で悲痛なエンディングであるのに対して、この古事記の、悲惨なのになぜかあっけらかんと明るいのはなんなのでしょうか。


たとえば伊邪那岐と伊邪那美の離婚話。火の神を産んで性器を焼き焦がし、我が身も焼き尽くして死んでしまった伊邪那美をあきらめきれず、黄泉の国まで追いかけていった伊邪那岐。ようやく会えた伊邪那美から、ここで待っていてください、決して探さないでくださいと言われたにも関わらず、待ちきれずに伊邪那美をさがし求めて暗闇を進むと、見るもおぞましい蛆虫だらけの腐乱死体となった妻の姿を見つけてしまう。逃げに逃げる伊邪那岐を、ものすごい憎悪の塊になって追いかける伊邪那美の大迫力。

追って 追って 追って 追いついて
夫をつかみとり 引き裂き 食い殺してしまいたい
伊邪那美の愛は 強い憎しみに 変じた
その怒りの 炎に包まれた
妻の姿を振り返り 見るつど
伊邪那岐は 震え上がり
さらに速く 駆けに駆けた(p.42)

それで、逃げている伊邪那岐が、走りながら自分の髪飾りや櫛をうしろに投げると、それが葡萄や竹の子に変わり、伊邪那美と共に黄泉の国から追いかけてきた女たちがそれにつられて食べている間にさらに逃げます。恐怖の逃走の場面で、なんでいきなり吉本新喜劇みたいなことが起こるのでしょう。そしてとうとう伊邪那岐は黄泉の国から抜け出し、大きな岩でこの世との通路を塞ぐと、伊邪那美は恨みを述べます。

「あなたは わたしに恥をかかせた
そのため わたしは
あなたの国の 生まれてくる子どもを
一日に千人 殺してしまいます」(p.45)

これに対して伊邪那岐は、それならわたしは一日千五百人が生まれる産屋を建ててみせるといい、これにて夫婦は絶縁、伊邪那美はひとりさびしく黄泉の国に帰ってしまいます。


なんか・・・ひどい結末じゃないですか!?日本の国土や大切な神様をたくさん作った二人が、もうひとかけらの愛も情けも未練もない、呪いの言葉をお互いに吐きあって絶縁し、妻はしょんぼり黄泉の国に追いやられるなんて・・・。これが日本の国土を作った神様ですよ、いいんですか(笑)


こんな物語が満載です。しかも、なぜか男性の主要な神様は、揃って虚弱体質のマザコン男で、色々な経験を経て強く賢い男に成長してゆきます。


あと有名なシーンで、天の岩屋戸に隠れた天照大神を呼び戻すために、神様が揃って岩屋戸の前でお祭りをするのですが、そのクライマックスの天宇受売命のダンスの描写は圧巻で、官能の極みです。サロメを超えるエクスタシーです。古代、きっと古事記は奉納という形であれ、さまざまに演じられてきたと思いますが、この場面はどのような巫女が法悦の表情で踊り狂ったのだろうかと想像するとウットリしてしまいます。


日本の神社の由来を知るためにも、一度は読んでおきたい「古事記」。読みやすくかつ原典を大事にしていると感じられる本書は、日本人なら万人にオススメの一冊です。

福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (訳) 「学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)」 ★★★☆☆

福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (訳) 学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

(歎異抄の前に、こちらのレビューがまだでした)

きっかけ=歴史モノに詳しいSさんからお借りして。

半年ほど前に「福沢山脈」「福翁自伝」を読み、せっかくなので(?)誰でも知ってる(でも読んだことはない)本書もお借りして読みました。
現代語訳ですので、サクサク読めます。訳者の解釈や色付けもほとんど感じなかったので、一応きちんと読んでおきたい、という方にピッタリです。

なんというかまあ、すごく新鮮です。この時代に書かれたものは、この時代の世相や息遣いを汲んで、自分自身がその時代で生きていることとして読む、と手続きを踏まないと、てんで時代錯誤なことをおっしゃっているように感じます。当たり前といえば当たり前ですが、やはり明治6年の新聞に載っていたような文章を読むと、その時代の空気がどういうものだったか、当惑とともにヒシヒシと感じます。

明治6年、約140年前です。はるか昔のようにも感じるけれど、曾祖父の時代と考えれば、その時代の価値観と我々の価値観の深い断絶に、物思わずにはおれません。「正義」とはその時代の相対的なものであると、改めて感じます。

福澤先生のおっしゃっていることが時代錯誤だとか、そういうことではありません。逆に、この時代にこれを言ったというのは、福沢諭吉はやはりすごいというか奇天烈な人だったんだなと感じます。

最初に、なぜ私は学問をすすめるのか、という理由が出てきます。例の、「天は人の上に人を造らず、~」という言葉から始まる一節は、結論としてこういうことをいいたいのです。

人は生まれたときには、貴賤や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ。(p.10)

当時、社会的な地位や貧富は「生まれた家」で決まる、と考えられていた時代に、「学問をすることで地位を向上させ、豊かになることはできる」と説いたわけです。これを啓蒙といわずして何をや。

ここでいう学問というのは、ただ難しい字を知って、わかりにくい昔の文章を読み、また和歌を楽しみ、詩を作る、といったような世の中での実用性のない学問を言っているのではない。(中略)いま、こうした実用性のない学問はとりあえず後回しにし、一生懸命にやるべきは、普通の生活に役に立つ実学である。たとえば、いろは四十七文字を習って、手紙の言葉や帳簿の付け方、そろばんの稽古や天秤の取扱い方などを身につけることをはじめとして、学ぶべきことは非常に多い。(p.11)
こういった学問は、人間にとって当たり前の実学であり、身分の上下なく、みなが身につけるべきものである。この心得があった上で、士農工商それぞれの自分の責務を尽くしていくというのが大事だ。そのようにしてこそ、それぞれの家業を営んで、個人的に独立し、家も独立し、国家も独立することができるだろう。(p.13)

「士農工商」ということばが出てきました。その制度がまだ生きている時代に書かれたことは本当に驚きです。しかも、世間の人は聞く耳を持たなかったのではなく、大ベストセラーになったのです。

当時は「学問」といえば、漢文を読み和歌を読み、といったことがいわゆる「学問」であったこともわかります。そんなものは今となっては「趣味」ですよね(笑)

そして福澤は、「個人が独立することで、家も独立し、結果として国家も独立することができる」、逆に、個人の独立がなければ国家の独立もない、ということを繰り返し繰り返し説いています。当時、いかに「個人」という意識が薄かったか、ということがわかります。家、親戚、土地の縁で、よく言えば連帯、悪く言えばもたれ合い、自分の力では何も変わらない、という空気が蔓延しているというか、当たり前だったのでしょう。当時、日本は独立した主権国家とは言えませんでした。自分の生き方と国家の独立とは何の関係もない、と思っている人が99%の世の中に、個人の独立なくしては国家の独立なし、と言い切った訳です。

このあと、「政府と人民は対等である」とか、「男尊女卑は不合理だ」とか、はたまた「保護と指図の範囲はぴたりとして寸分の狂いもあってはならない」とか、「忠臣蔵が称賛されるのはおかしい」とか、今の時代でも十分説得力のある持論が展開されています。忠臣蔵をこき下ろしていることなぞ、実に痛快ですね。

改めて、福澤諭吉という人はよほどの変わり者だったんだろうな、と楽しく想像するとともに、しかしこの時代に本書は空前のベストセラーになったのいうのだから、当時の日本人もなかなかセンスあるな、と感じた次第。

中野 京子「名画と読むイエス・キリストの物語」 ★★★☆☆

中野 京子「名画と読むイエス・キリストの物語」

きっかけ=たまたま本屋さんで見かけて、よさそうな気がして購入。

かつて通っていたキリスト教系の大学は、キリスト教について学ぶことが重要視されており、4年間の必修キリスト教学で聖書(旧約・新約)をひととおり学ぶことができました。でも、聖書に出てくる話は、断片的には知っていても、つながりを忘れてしまったり、すっかり忘れていることも多くて、改めて読んでみたいなあと思っていました。

本書は「名画と読む」と題されているように、目的が聖書の解釈を深めることではなくて、ヨーロッパの宗教画をより楽しみましょう、ということです。明快ですね~!こんな風に、誰それさんの解釈ではなく、スルリとそのままの物語を読めるものは、案外とありません。入門者向けのものになると、なぜかデアゴスティーニ風のカラーチャートや図解になって、見開き2ページでひとつのテーマごとに解説する、というスタイルになってしまうのはなぜなんでしょう。

「はじめに」で、本書の意図を説明し、地図をもとにイスラエルの風土、歴史、ユダヤ教、受難、当時の支配はローマ帝国であることなどの時代背景をサラリと説明したあとは、第一章はきっちり「受胎告知」から始まります。乙女マリアのもとに天使ガブリエルが舞い降り、彼女が神の子を身ごもったことを厳かに告げる。この「受胎告知」は、四つの福音書の中でもルカによる福音書にしか記述がないはずです。聖書にはあちらには記述があってもこちらにはない、または矛盾したことが書かれている、というものが数多くありますが、それらすべてを真実とするのがキリスト教なので、色々な解釈も生まれます。しかし、本書はそういう難しいことは横に置いて、とにかく聖書に記述があることで絵画のテーマになっていることを、流れに沿って淡々と物語ってゆく、というスタイルをとっています。

取り上げられている絵画はフラ・アンジェリコ「受胎告知」、ティツィアーノ「悔悛するマグダラのマリア」など、一度はどこかで見たことのある作品。欲を言えば、この絵画のサイズが小さいものも多かったので、ページいっぱいに掲載してほしかったかなーと。といっても普通の書籍サイズなので、大きくしてもそこまでですが。ま、ちゃんと見たい人は画集で見てね、ってことですね。

ひととおり読んで、久々に聖書を開く意欲も湧いてきました。宗教には興味が尽きません。しかし、いま興味があるのは新約より旧約聖書です。あの恐ろしい神と不可解な人間の行動、解釈も様々です。旧約を題材にした絵画も非常に多いので、著者の中野さんにはぜひ旧約版も書いていただきたいのですが、無理でしょうか・・・。旧約こそ、図解チャートみたいなものさえほとんど存在せず、困っております。

エイミー・チュア (著), 徳川 家広 (翻訳) 「最強国の条件」 ★★★☆☆

エイミー・チュア (著), 徳川 家広 (翻訳) 「最強国の条件」

きっかけ=歴史モノに詳しい友人S氏にお借りして(そのあと自分でも購入)。

「ものすごくよくできた卒論」という印象の本でした。
というと、なんだか偉そうで申し訳ないのですが、論旨は理路整然としてわかりやすく、大変おもしろかった一冊です。


まず、著者の強烈な個性に興味が沸きます。中国系アメリカ人の美しく知性的な女性で、イェール大学ロースクール教授。「著者あとがき」によると、中国の貧困な家庭に生まれながら、夢をかなえるために渡米した父と母の間に生を受けた同氏は、異常なほどのスパルタ教育を受けて育つ。家では中国語を話すことを強制され、少しでも英語の単語が口をついて出れば「お箸でぴしりと叩かれ」、学校の歴史論文コンテストで二位になった授賞式で、他の生徒が「万能生徒」のキワニス・クラブ賞を勝ち取った場にいた父親からは、ことあるごとに「二度と、あんな恥をかかせるな」とお説教される。そんな子ども時代を送った彼女は、その後ハーバード大学ロースクールを卒業、イェール大学の教授になるという晴れがましい経歴をたどる。

そんな彼女が二人の娘を持つと、またもや強烈な中国式スパルタ教育を行ったのだ。その赤裸々な体験記を「タイガー・マザー」という書籍に著し、全米で教育論議を巻き起こすベストセラーになったとのこと。この「タイガー・マザー」、かなり過激でおもしろそう匂いがするので、近々読んでみたいと思います。



さてさて、前置きが長くなりましたが、この著書の論旨は簡潔明瞭です。

「歴史上、同時代において他を大きく引き離し、一極優位の圧倒的な力を持つ『最強国』が何度か登場する」
「『最強国』であるための重要な要素は、『寛容さ』である」
「『最強国』が衰退する時期は、寛容さの喪失と期を一にしている」

彼女の定義する『寛容さ』とは、愛とか優しさとか慈悲とかそういう部類のものではなくて、国、人種、信仰の異なる人々に対して、社会的向上を目指すチャンスが(他国に比べて)開けていたか、ということです。

『最強国』というと、現代ではすぐに「アメリカ合衆国」をイメージするでしょう。90年代のような圧倒的支配力はなくなったとはいえ、今もアメリカの優位は変わりません。
古代からの歴史を紐解くと、ローマ帝国、唐、モンゴル帝国、近代になるとオランダ、イギリス、そしてアメリカが、いかにして『最強国』となったかを検証し(彼女の定義では、決定的に重要なのが『寛容さ』である)、さらに将来のポスト・最強国の可能性として、中国、EU、インドを検討している。また、最強国になれなかった原因について、ナチス・ドイツと大日本帝国の不寛容も挙げている。

洋の東西を問わず、古代から近現代、さらに近未来予測まで、『最強国は寛容である』というテーマでざっと紹介されるというのは、世界の昔から今までの総集編のベスト盤という感じで、そりゃあ面白くない訳がない。

信仰がすべての価値観と生活の中心になる中世以降に入ると、どの国も不寛容さが極限まで到達してしまいます。ユダヤ教徒や、キリスト教でもルター派などカトリック以外の教派の人は、残酷な処刑を受けたり、国を追い出されます。その中で、「ま、おとなしくしててくれれば、信仰は自由にやっていいですけど」という『寛容』な国があると、ユダヤ人やプロテスタントが続々となだれ込んできます。
それがオランダであり、次にイギリスであり、そして第二次世界大戦となると、ユダヤ人はアメリカに渡るしかない。結果的に、その国は優秀な人材を吸引し、他を引き離した経済力をつけることにつながってゆきます。


振り返って、今の日本。どんどん右傾化していっていますね。つまり『非寛容』です。しかし、そもそも日本は『最強国』になりそこなった国ですし、これからもそのポジションにはなり得ない、また目指さないでしょう。また、著者も認めていますが、『寛容さ』は、『最強国』の必要条件ではあれ、十分条件ではありません。これから日本はどのポジションを取り、日本人はどう生き延びるのか。改めて『寛容さ』だけでは立て直せないな、と感じた次第。


ちなみに、本書に出てくる『最強国』で、いちばん面白かったのは「唐」でした。わたしが学生時代きちんと勉強しなかったせいでほとんど忘れていたこともあり、えっそうだったっけと思ったのですが、太宗、玄宗の二代名君が治めたこの時代に、則天武后と楊貴妃が出てくるんですね。いやすごいですよ、則天武后。科挙制度を改革したんですね。愛人の四肢を切り落として酒樽に放り込んだことしか覚えてませんでした(笑)

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」 ★★★☆☆

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」

きっかけ=piyoにお借りして。

内田先生の代表作として、処女作「ためらいの倫理学」とともに挙げられることの多い本作、以前から一度読んでみたいと思っていました。

本書は2003年8月から翌年の3月までの、朝日カルチャーセンターでの講演録が元になっているらしいです。
この前に読んだ「最終講義」も講義録ですが、ブログ転載本よりテーマや文体に統一感があって、一冊読み終えたときに充実感があります。

内田先生の持論に、「人間は、埋葬することによって他の霊長類から分岐して人間になった」というものがあり、本書にも出てきます。
タイトルの「死」がコミュニケーションの磁場である、という意味がよくわかる一説を、ちょっと長いですが引用します。

他者とは死者のことです。
人間は死んだ者とさえも語り合うことができます。それは言語の準位ではないし、身体感覚の準位でもない。もうひとつさらに深いところにある回路で起きている出来事です。
人間は死者とコミュニケーションできる、あるいは「死者とコミュニケーションできると自分のことを考えた生物を人間と呼ぶ」と定義してもいいと思います。
ご存じのように類人猿と人類がわかれた指標のひとつは、霊長類のなかで人類だけが葬式をしたということです。四万年前に「死の儀礼」をもったことによって、人間は猿から人間に進化しました。ということは、人間の定義というのは「葬礼をするもの」だということです。葬礼をするということは、死者は物体ではないということです。死者は死んで「いる」わけです。まさにetre mort(エートル・モール)というかたちで、そこに死んで「いる」。
わたしたちが遭遇するいちばんの劇的な倫理的状況は、自分が目の前の誰かの首をしめてまさに殺さんとしている状況でしょう。そのときにわたしたちは「汝、殺すなかれ」ということばを聞き取る。でも、それはことばではない。それは死につつある人のさらに「向こう」からくるメッセージなんだと思います。死者からのメッセージ、死につつあるものからのメッセージ、つまりダイイング・メッセージを聞き取る能力が、人間の人間性を基礎づけている根本的な能力だと思います。(p.194)

なるほどですね。私たちは死者からのメッセージを聞くことによって、倫理的な判断をしているのです。
目の前にいる人に「なぜ人を殺してはいけないのですか」と平然と問える人がいたとしても、死者にそれを問う人はいないでしょう。


内田先生の「死」をめぐる考え方は、上の持論が基礎となっています。
では「身体論」については・・・これがなかなか論旨を定めることが難しいのですが、それも当たり前で、要は「脳でわかろうと思うな、身体でわかれ」とおっしゃっているわけです。

本も身体で読め。口で話していることだけでなく、非言語メッセージを身体で読み取れ。
脳で「わかった」と思ったことは、「わかった」と思った瞬間からスルリと逃げてゆく。だから身体でつかみ取るしかない。
「禅」と同じですね。偉いお坊様が書かれた禅の本を何冊読んでも、まず坐らなければ「禅」がわかったことにはならない。


内田先生は武道家でもありますが、時間をずらすことによってモノにする、という武道家ならではの視点が大変おもしろかったです。
今起こっていることを、自分だけ未来に時間をずらして捕らえ直すと、今起こっていることが過去になる。これができれば相手をモノにできる、というのです。

K-1の武蔵さんの挿話がおもしろいです。
内田先生が「K-1みたいなリアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどういう反応をするんですか?」と訊いたところ、「時間をずらして対処します」と即答されたとのこと。
時間をずらすというのは、相手からパンチを一発受けたその瞬間に、逆に自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」ことで、殴られている「今」を「過去」にしてしまって対処する、ということなのだそうです。
うーん、すごい。

少し前に読んだ池谷祐二さんの著書にも、脳は未来に時間をずらしてから現在を捕らえている、ということが解き明かされていますが、脳も身体も同じなんですね。このことを、池谷氏のように脳科学を突き詰めるという手段ではなく、自分自身の「身体感覚」を高めることで解明してしまった内田先生、やっぱり半端ないです。


ところで、装丁をみて、なんか前もこういう本読んだことあるな・・・と思ったら、「べてるの家の『非』援助論」と同じ。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」だったんですね。
同シリーズの他の作品のタイトルを見てみると、かなり魅かれます。「ケア学」「気持ちのいい看護」「感情と看護」などなど。
本書を同シリーズに入れたことといい、かなり斬新でアグレッシブな匂いがします、「シリーズ ケアをひらく」。注目したいです。

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」 ★★★☆☆

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」

きっかけ=ちょうど『これからの「正義」の話をしよう』を読んでいるときに、書店の平台に新刊書として山積みされていました。これは読まねばと購入。

引き続き、サンデル氏の著書です。
『これからの「正義」の話をしよう』と比べると、本の装丁や厚みはほとんど同じなのに字は倍くらい大きいので、文量は半分くらいでしょう。でも価格は100円しか変わらない(笑)。出版社の戦略に乗ってしまいました。

(以下、Amazon.comより引用)

結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。
(本文より)

私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引になんら問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。
だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。

本書で、注目した視点は2つあります。
ひとつは、「財」を「善」と言い換えている、すなわち「善」は「ある社会にとっての財産(つまり価値そのもの)」である、ということです。
はじめのうち、「財[善]」と注釈をつけていますが、後半で読者が慣れてくると、単に「善」としています。
「財産」というと「お金」というようなイメージが付きまとうので、最初は違和感があるのですが、氏が言いたいのは、「財」とはその社会にとっての「善」であるからこそ「財(つまり価値)」でありえる、という前提に則って議論を進めましょう、ということだと思います。
ふたつめは、「お金で買う」ことによって生じる堕落を、「腐敗」と表現していることです。

われわれは、腐敗というと不正利得を思い浮かべることが多い。だが、腐敗とは賄賂や不正な支払い以上のものを指している。ある財[善]や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(p.53)

事例として、北極圏に住むイヌイットが特別に認められているセイウチ猟の権利をハンターに売ることについて、氏はこう記しています。

イヌイットが自分たちに割り当てられたセイウチを殺す権利を外部の人間に売れば、そもそも彼らのコミュニティーに認められた例外扱いの意味と目的が腐敗してしまう。イヌイットの暮らしに敬意を払い、昔から生活の糧としてきたセイウチ猟を尊重することと、その特権を、片手間に動物を殺す現金利権へ変えてしまうことは、まったく別なのだ。(p.123)

「財=善」を売るということは、二重の意味での問い立てが発生します。
まず、その売ろうとしている「財」は、本当に自分の(または社会の)所有物か、と問い。
たとえば、自分の体は自分の所有物か。当たり前だ、という考え方と、体は所有物ではない、という考え方。
次に、その財を売ることは、財の持つ本来の価値を貶めるものではないか、という問い。
自分の体に値段を付ける少女は、自分に価値をつけているつもりで、貶めているのではないか。

たとえば、地方自治体が、財政難だからといって、安易に公共施設や駅の「命名権」を売る行為。
渋谷公会堂が「C.C.レモンホール」になったとき、なんじゃそれはと思ったのは私だけではないでしょう。
その場所で忘れられないコンサートを見た人も、その舞台に立った人も、貶める行為です。
渋谷公会堂を自分たちの所有物だと考えている渋谷区さんにも、ぜひ本書を読んでいただきたいものです。


本書にはこれらの基準を問う、多くの事例が挙げられています。
市場原理主義に浸かりきって、教育の場にまで持ち込まれても何も感じなくなった我々は、目を覚ます必要があります。
小学校の授業に銀行の人がやってきてお金の話を教える。これを賞賛する学校と親がいる。私には狂っているとしか見えない寒々しい光景ですが、ほとんどの大人がこれを支持しているのが現実です。
さきほど挙げたような「命名権」も、最近はあまり奇妙だと感じなくなった自分自身に恐ろしさを感じます。


冒頭のメッセージ「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。」という言葉は、とても深いと思います。
「共生」は、「市場」と対の意味をなします。「市場」は個人主義のことであり、「共生」は寄り添って営むもの。
「市場」の価値を求めると、「共生」の価値は減じる。

「市場原理主義」の価値観が浸透しきって、「共生」が限りなく無価値なものになっている今、もう一度「お互いに迷惑をかけ、かけられる、面倒な共生関係を引き受ける」ことの価値を、氏は本書を通して我々に問いかけています。