内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」 ★★★☆☆

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」

きっかけ=piyoにお借りして。

内田先生の代表作として、処女作「ためらいの倫理学」とともに挙げられることの多い本作、以前から一度読んでみたいと思っていました。

本書は2003年8月から翌年の3月までの、朝日カルチャーセンターでの講演録が元になっているらしいです。
この前に読んだ「最終講義」も講義録ですが、ブログ転載本よりテーマや文体に統一感があって、一冊読み終えたときに充実感があります。

内田先生の持論に、「人間は、埋葬することによって他の霊長類から分岐して人間になった」というものがあり、本書にも出てきます。
タイトルの「死」がコミュニケーションの磁場である、という意味がよくわかる一説を、ちょっと長いですが引用します。

他者とは死者のことです。
人間は死んだ者とさえも語り合うことができます。それは言語の準位ではないし、身体感覚の準位でもない。もうひとつさらに深いところにある回路で起きている出来事です。
人間は死者とコミュニケーションできる、あるいは「死者とコミュニケーションできると自分のことを考えた生物を人間と呼ぶ」と定義してもいいと思います。
ご存じのように類人猿と人類がわかれた指標のひとつは、霊長類のなかで人類だけが葬式をしたということです。四万年前に「死の儀礼」をもったことによって、人間は猿から人間に進化しました。ということは、人間の定義というのは「葬礼をするもの」だということです。葬礼をするということは、死者は物体ではないということです。死者は死んで「いる」わけです。まさにetre mort(エートル・モール)というかたちで、そこに死んで「いる」。
わたしたちが遭遇するいちばんの劇的な倫理的状況は、自分が目の前の誰かの首をしめてまさに殺さんとしている状況でしょう。そのときにわたしたちは「汝、殺すなかれ」ということばを聞き取る。でも、それはことばではない。それは死につつある人のさらに「向こう」からくるメッセージなんだと思います。死者からのメッセージ、死につつあるものからのメッセージ、つまりダイイング・メッセージを聞き取る能力が、人間の人間性を基礎づけている根本的な能力だと思います。(p.194)

なるほどですね。私たちは死者からのメッセージを聞くことによって、倫理的な判断をしているのです。
目の前にいる人に「なぜ人を殺してはいけないのですか」と平然と問える人がいたとしても、死者にそれを問う人はいないでしょう。


内田先生の「死」をめぐる考え方は、上の持論が基礎となっています。
では「身体論」については・・・これがなかなか論旨を定めることが難しいのですが、それも当たり前で、要は「脳でわかろうと思うな、身体でわかれ」とおっしゃっているわけです。

本も身体で読め。口で話していることだけでなく、非言語メッセージを身体で読み取れ。
脳で「わかった」と思ったことは、「わかった」と思った瞬間からスルリと逃げてゆく。だから身体でつかみ取るしかない。
「禅」と同じですね。偉いお坊様が書かれた禅の本を何冊読んでも、まず坐らなければ「禅」がわかったことにはならない。


内田先生は武道家でもありますが、時間をずらすことによってモノにする、という武道家ならではの視点が大変おもしろかったです。
今起こっていることを、自分だけ未来に時間をずらして捕らえ直すと、今起こっていることが過去になる。これができれば相手をモノにできる、というのです。

K-1の武蔵さんの挿話がおもしろいです。
内田先生が「K-1みたいなリアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどういう反応をするんですか?」と訊いたところ、「時間をずらして対処します」と即答されたとのこと。
時間をずらすというのは、相手からパンチを一発受けたその瞬間に、逆に自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」ことで、殴られている「今」を「過去」にしてしまって対処する、ということなのだそうです。
うーん、すごい。

少し前に読んだ池谷祐二さんの著書にも、脳は未来に時間をずらしてから現在を捕らえている、ということが解き明かされていますが、脳も身体も同じなんですね。このことを、池谷氏のように脳科学を突き詰めるという手段ではなく、自分自身の「身体感覚」を高めることで解明してしまった内田先生、やっぱり半端ないです。


ところで、装丁をみて、なんか前もこういう本読んだことあるな・・・と思ったら、「べてるの家の『非』援助論」と同じ。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」だったんですね。
同シリーズの他の作品のタイトルを見てみると、かなり魅かれます。「ケア学」「気持ちのいい看護」「感情と看護」などなど。
本書を同シリーズに入れたことといい、かなり斬新でアグレッシブな匂いがします、「シリーズ ケアをひらく」。注目したいです。

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内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」 ★★★★☆


内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」

きっかけ=piyoにお借りして。

ちょい久々に、内田先生です。
書名の「最終講義」のとおり、神戸女学院大学の現役教授を退任されるにあたり、最後に壇上に立ってお話された講義録から始まり、その他5本の講義録を併せて一冊にしています。

やはり内田先生のライブ(講義)は、ものすごくパワーがあるのだと思います。講義録を読むだけでもビンビン伝わります。
一本勝負の緊張感。
毎度長い枕から、多くは唐突なたとえ話、そして徐々に主題に近づいてくる、と思ったら息抜き、そしてラストスパート、最後の落ちまで、まったく飽きさせないし、ライブを聞いている側のメンバー構成(学生だったり、同窓会のおばさまだったり、教育委員会のおじさまだったりする)によって、トーンを変えたりその場の空気を読んでの間合いも感じられます。

ブログ転載ものとは異なり、初めてウチダ節を聞く人がいるという前提で話が構成されているので、膨大なウチダ本の最初の一冊にもうってつけだと感じました。


計6本の講義録のうち、特におもしろかったのは以下の4本。

Ⅰ 最終講義(神戸女学院大学)2011年1月22日

これは正直、わたしが同校出身であることが理由で感慨深かったです。私が同大学2年生のときに内田先生は赴任されたらしいのですが、在学中はまったく存じ上げず、もちろん講義も受けなかったことが悔やまれてなりません。
しかし、内田先生自身の経験として語られている、入学式がキリスト教の礼拝形式で行われ賛美歌から始まったことに驚いたこと、茂洋チャプレンの祝福の言葉の宛先に自分自身が含まれていることを感じたこと、陰影深いヴォーリズ建築の隠し階段やトイレに驚いたこと、私自身も鮮やかに思い出すことができます。
本書のおかげで、あの大学を選び、卒業してよかったと、改めて(というか初めて)感じることができた次第です。


Ⅲ 日本はこれからどうなるのか?-”右肩下がり社会”の明日(神戸女学院教育文化振興めぐみ会講演会)2011年6月9日

この講義が行われた「めぐみ会」というのは、我が母校の同窓会ですが、笑うくらいすごい集まりです。
女学院卒業ということが大変なステイタスになった時代に生き、三代続いて女学院、というようなお家柄に誇りを持ち、今もそれをアイデンティティにされているご婦人がたくさんおられます。
もちろん私自身は縁がなく、会合なども一度も出席したことがありませんが、当時の学内にも「めぐみ会」の建物があり、品のよいおばさま方が大勢行き来されていたことを覚えています。
その「めぐみ会」の講演で、なんと「北方領土」のテーマから話し始める内田先生。やりすぎです(笑)

なぜ我々は北方領土問題について無知すぎるほど無知なのか、という切り口から、沖縄基地の核保有の可能性に言及し、と思うと母親と父親の育児戦略のちがい、自殺率は平和な時代に上昇する、教育立国をめざすべき、とまあ、言いたい放題でございます(笑)
この一章だけでもかなり読み応えがあります。「めぐみ会」の講義だけで終わらず書籍になってよかったなあーと、しみじみ思う次第です。


Ⅳ ミッションスクールのミッション(大谷大学開学記念式典記念講演)2010年10月13日

大谷大学とは、関西の人なら誰でも知っている仏教大学です。
内田先生の教育論がぎっちり詰まっている一章で、読み応えあると共に感動しました。

『教育というのは、「私にはぜひ教えたいことがある」という人が勝手に教え始める。聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。』(p.171)

学びたい人(つまり市場でいうところの「顧客」)のご要望に沿って、供給側である学校が教育内容を変化させるなど、内田先生に言わせれば本末転倒なわけですが、今はこちらの方が主流の考え方であることを鋭く指摘し、警鐘を鳴らしています。

『「ミッションスクールのミッション」というのは、要するに旗印を鮮明にするということです。特に宗教系の大学の場合、ここ数十年の間に建学の理念がだんだん希薄化していき、クリスチャンのミッションスクールでも、宗教儀礼や必修のキリスト教学をなくしていったり、礼拝の参加義務を緩和したり、入学式・卒業式から宗教色を払拭していったりする傾向があります。「だって、宗教色を払拭しないと、志願者来ませんから」ということを平然と言う人がいる。率直に言って、そういうことを言う人に、大学教育には関わって欲しくない。』(p.188)

『大谷大学もいいじゃないですか、このサイズではなくても。高々と旗印を掲げて、それで学生が減っていったら減っていったでいいじゃないですか。浄土真宗の学校なんか厭だなあというような学生に来てもらうこと、ないですよ。学生数が減ったら、減ったなりにダウンサイジングして、寺子屋みたいなものになっても構わないじゃないですか。教育機関の真の価値は財務内容でも在学生数でもなく、そこでどのような人間を生み出したかということで考量するしかないんですから』(p.188)

感動です。拍手喝さいです。
しかし大谷大学の先生方は、大変な人に講演をお願いしてしまいましたね(笑)
関西随一のミッションスクールとして、ぜひとも踏ん張っていただきたいと思います。


Ⅴ 教育に等価交換はいらない(守口市教職員組合講演会)2008年1月26日

内田先生の「教育に市場原理主義を持ち込むべからず」持論が、一章で簡潔にわかってよいです。
内田先生はずーーーーっとこのテーマにこだわって、色んなところで主張を展開されていますので、知っている人にはおなじみの内容ですが、内田先生の教育論はどれから読めばいいのと言われれば、この一章はピッタリだと思います。

というわけで、6本の講義録のうち4本が必読という、大変内容の濃い一冊でした。

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」 ★★★☆☆

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」

きっかけ=ちょうど『これからの「正義」の話をしよう』を読んでいるときに、書店の平台に新刊書として山積みされていました。これは読まねばと購入。

引き続き、サンデル氏の著書です。
『これからの「正義」の話をしよう』と比べると、本の装丁や厚みはほとんど同じなのに字は倍くらい大きいので、文量は半分くらいでしょう。でも価格は100円しか変わらない(笑)。出版社の戦略に乗ってしまいました。

(以下、Amazon.comより引用)

結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。
(本文より)

私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引になんら問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。
だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。

本書で、注目した視点は2つあります。
ひとつは、「財」を「善」と言い換えている、すなわち「善」は「ある社会にとっての財産(つまり価値そのもの)」である、ということです。
はじめのうち、「財[善]」と注釈をつけていますが、後半で読者が慣れてくると、単に「善」としています。
「財産」というと「お金」というようなイメージが付きまとうので、最初は違和感があるのですが、氏が言いたいのは、「財」とはその社会にとっての「善」であるからこそ「財(つまり価値)」でありえる、という前提に則って議論を進めましょう、ということだと思います。
ふたつめは、「お金で買う」ことによって生じる堕落を、「腐敗」と表現していることです。

われわれは、腐敗というと不正利得を思い浮かべることが多い。だが、腐敗とは賄賂や不正な支払い以上のものを指している。ある財[善]や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(p.53)

事例として、北極圏に住むイヌイットが特別に認められているセイウチ猟の権利をハンターに売ることについて、氏はこう記しています。

イヌイットが自分たちに割り当てられたセイウチを殺す権利を外部の人間に売れば、そもそも彼らのコミュニティーに認められた例外扱いの意味と目的が腐敗してしまう。イヌイットの暮らしに敬意を払い、昔から生活の糧としてきたセイウチ猟を尊重することと、その特権を、片手間に動物を殺す現金利権へ変えてしまうことは、まったく別なのだ。(p.123)

「財=善」を売るということは、二重の意味での問い立てが発生します。
まず、その売ろうとしている「財」は、本当に自分の(または社会の)所有物か、と問い。
たとえば、自分の体は自分の所有物か。当たり前だ、という考え方と、体は所有物ではない、という考え方。
次に、その財を売ることは、財の持つ本来の価値を貶めるものではないか、という問い。
自分の体に値段を付ける少女は、自分に価値をつけているつもりで、貶めているのではないか。

たとえば、地方自治体が、財政難だからといって、安易に公共施設や駅の「命名権」を売る行為。
渋谷公会堂が「C.C.レモンホール」になったとき、なんじゃそれはと思ったのは私だけではないでしょう。
その場所で忘れられないコンサートを見た人も、その舞台に立った人も、貶める行為です。
渋谷公会堂を自分たちの所有物だと考えている渋谷区さんにも、ぜひ本書を読んでいただきたいものです。


本書にはこれらの基準を問う、多くの事例が挙げられています。
市場原理主義に浸かりきって、教育の場にまで持ち込まれても何も感じなくなった我々は、目を覚ます必要があります。
小学校の授業に銀行の人がやってきてお金の話を教える。これを賞賛する学校と親がいる。私には狂っているとしか見えない寒々しい光景ですが、ほとんどの大人がこれを支持しているのが現実です。
さきほど挙げたような「命名権」も、最近はあまり奇妙だと感じなくなった自分自身に恐ろしさを感じます。


冒頭のメッセージ「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。」という言葉は、とても深いと思います。
「共生」は、「市場」と対の意味をなします。「市場」は個人主義のことであり、「共生」は寄り添って営むもの。
「市場」の価値を求めると、「共生」の価値は減じる。

「市場原理主義」の価値観が浸透しきって、「共生」が限りなく無価値なものになっている今、もう一度「お互いに迷惑をかけ、かけられる、面倒な共生関係を引き受ける」ことの価値を、氏は本書を通して我々に問いかけています。

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」 ★★★★☆

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」

きっかけ=piyoにお借りして。

久々に、真っ芯から哲学的な問い立てをしている本を読みました。
タイトルが「正義」ですよ。

齢四十を越え、この世の中に「これが正義である」というようなものがあるとすれば、大きな勘違い以外の何者でもないということを、投げやりでも諧謔でもなくそう本当に思っている訳でして、
そこに「正義の話をしよう」などと言われると身構えること甚だしく、自分だったら決して手に取らない本だったと思います。
が、piyoの書評を読んで、これは読まねばならないぞと感じた次第。


政治哲学者でありハーバード大学教授であるマイケル・サンデル氏のことは、本書で初めて知りました。
2010年にNHK教育テレビで氏の大学講義録「ハーバード白熱教室」が放映されて日本でも有名になったということで、ぜひとも放映見たかったです、残念です。

本書では、いくつもの「それが正しいかどうか判断できない」という例が出てきます。
代理母出産は正義か?なぜ志願兵はよくて傭兵(または徴兵)はよくないと感じるのか?マイケル・ジョーダンの報酬は正当か?
これらを、「幸福」「自由」「道徳」の3つのアプローチから、我々が何を根拠に「正義」「非正義」と判断するのか、ひとつづつ丹念に紐解いてゆきます。

正義への三つのアプローチ

ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの-収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉-がどう分配されるのかを問うことである。公正な社会ではこうした良きもものが正しく分配される。つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うときである。

われわれはそうした問題をすでに考えはじめている。便乗値上げの是非、パープルハート勲章の受章をめぐる対立、企業救済などについて考えながら、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。(p.29)

・幸福の最大化--功利主義=最大多数の最大幸福が「正義」
・自由の尊重--自由至上主義(リバタリアニズム)=個人の自由な選択を最大限尊重することが「正義」
・美徳の涵養--共通善に基づく美徳の涵養や善良な行動が「正義」

読み進んでゆくと、いかに私たちの脳みそが、「功利主義」や「自由至上主義」という価値観で無意識に物事を捉え判断しているか、身にしみます。
私たちがごく自然に「正しい」と感じること、「気持ちいい」と感じることについて、丁寧に紐解いてゆくと、無意識のうちに「功利的」「自由主義的」に判断している。

サンデル氏が強調したいのは、3つ目のアプローチ方法、「美徳の涵養」つまり道徳的な正義の指針です。
しかし、「道徳的な判断を正義の指針としよう」というと、少し身構えませんか?
なぜかと考えてみるに、それは「個人の自由を損なう匂い」がするからですね。

「何をもって正義とするかは私自身の判断でしょ?道徳的って誰にとって道徳的なの?判断基準を統一にするのは危険、まるで宗教。」
そう言いたくなるとすれば、頭からどっぷり「自由至上主義」に浸かって生きているからです。。。


氏は本書でまず、功利主義の限界、自由至上主義の限界を語り、3つ目のアプローチ法を述べるにあたっては注意深く、イマヌエル・カントの「自律」の概念を解説した上で、最終章の「正義と共通善」に向けて持論を進めてゆきます。
カントの教えは初めて学びましたが、究極的にストイックですね。


大変内容の濃い一冊で、うまくまとめきれないのですが、私自身が三十代前半に疑問に思ったことの多くが言及されていると感じました。
昔疑問に思ったことというと、たとえば、私はこの右手を伸ばして何かをするとすれば、そうすることが「善」いと思ってそうするに違いないはずだが、「悪い」と思っていても右手を伸ばすことがある。
それは何かと考えると。。。「快楽」だな、と考えました。
たばこに手を伸ばすこの手は、「善」を求めているのではないけれど、「快楽」を求めているのだな、と(昔の話ですょ)。

私の中でずーっと、「善」の反対は「悪」ではなく「快」であり、選択の場面で、「快」ではなく「善」を選択できるか、というのが人生のテーマでした。
論語に、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」とありますが、そうか七十歳になると、快楽を求めても善になるのか、それなら七十歳になってみたいなあと思いました(今でも思っているし、楽しみ)。

・功利主義とは、「快」を求めることが「善」であり「正義」だ、という考え方であり、
・自由至上主義は、「快」でも「善」でも、どちらが「正義」か決めるのは私だ、という考え方であり、
・美徳の涵養は、「快」ではなく「善」こそが「正義」だ、という考え方です。

そういうことが、本書でもっともっと深みをもって、語られております。
哲学的な問いに興味のない方はこの世にいないと思います。ぜひ手にとって、考える機会に。

五月女 ケイ子「五月女ケイ子のレッツ!!古事記」 ★★☆☆☆


五月女 ケイ子「五月女ケイ子のレッツ!!古事記」

きっかけ=友人Kさんにお借りして

最近日本の神様にハマっているというKさんからお借りしました。
超シュールなマンガで古事記(上巻)を語っています。

古事記もいつかきちんと読んでみたいとは思っているのですが、マンガということもあり、非常に楽しく読みました。
有名な「稲葉の白ウサギ」や「天の岩屋戸」などのお話も出てきます。


各ページの下の方に、著者の五月女さんと「オロチ博士」とのやりとりがあり、これもおもしろいです。
例えば、イザナミが多くの神を産んだシーンのページには、

五月女「吐しゃ物や小便、大便からも神が生まれるなんて、すごい発想ですね?」
オロチ博士「大便や小便や吐しゃ物、体から出るすべてのモノが、イザナミの分身なのです。」

というような、オロチ博士の解説があります。


古代の神様を描いた書物は、古事記に限らずギリシア神話、旧約聖書の神様、ヒンドゥーの神様も、ものすごく身勝手で傍若無人、さらにアチラ方面しか考えていないような神様も数多く出てきますが、科学で世界を理解しようというモチベーションのなかった時代、因果不明で暴力的なこの世界と付き合っていくために、人間のの理解や常識をはるかに超えた神様のなせる仕業として、畏れ受け入れるしかなかったのだと想像します。


以前、ヒンドゥー教の聖典「マハーバーラタ」の一部、「バガヴァッド・ギーター」を読んだことがありますが、似たような印象を受けました。ギーターは物語であり哲学書ですが、おそらく古事記もきちんと読むと哲学に通じるのではないかと期待します。
改めて、近いうちに古事記の原典も読んでみたいと思いました。


※せっかくなので、8年くらい前に読んだギーターのレビューも、アップしておきます。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫) ★★★★☆

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

きっかけ=8年前くらいに読んで書きとめたレビューです。当時ガンディーにはまっていて、氏の座右の書とされている本書に興味を持ちました。


インドの二大叙事詩のひとつ「マハーバーラタ」の第六巻に編入されているこの有名な聖典を、私が手に取るきっかけとなったのは、ガンディーのギーター信仰である。
「ガンジー自伝」第五部「ギーター研究」では、「わたしにとって、ギーターは行為における不可欠の指針になった。それは、わたしの日常必携の辞典となった」とされている。


この聖典の主題はシンプルだ。
「この世に生きる我々は、定められた自分の職務を、結果を期待せずに、ただ行為のために行為することによって解脱できる。行為の結果は神に預け、成功・不成功に執着してはならない」。

つまり、究極の「無償の行為」を説くものだ。

さまざまな宗教書についてほぼ無知の私が、今わかる範囲でギーターおよびヒンドゥー教の特徴を並べると、以下のようになる。

・ 私たちのような普通の社会人が、特別な修行をしなくとも、自分の仕事をしながら解脱に近づけるのだという明快さ。

・ 自分の職務は予め定まっており、それを行うべしとする、カーストに立脚した教え。

・ よって、武士は人を殺すのが与えられた役割だから、たとえ人を殺しても罪にはならず、気にしなくてよいという教え。

・ ブラフマンは最高神であり、他の信仰の対象も実はブラフマンだという解釈なので、キリストもアッラーも本当は全部ブラフマンなんだ!ということになってしまう。

・ ヒンドゥーの信仰の形もさまざまだが、この考え方が源泉なのだろう。

・ しかし、他の信仰対象は最終絶対神ではないので、輪廻を繰り返す。
ブラフマンを信仰し一体化した人はもう生まれ変わらない(=安寧)というのが面白い。

・ 目指す境地は「無我、無私の状態」であり、仏教に非常に近い(当然といえば当然だが)。
「知識のヨーガ」は、仏教の「智慧」に当てはまると思われる。

・ 「放擲者(結果を求めず行為する人)」→「ヨーギン(行為の超越を成就した隠棲者)」→「ブラフマン(最高神)との一体化」と、解脱への到達過程を二段階に分けているのが特徴的。

この「神の歌」がオルガスムスに達するのは第十一章。
戦士アルジュナが、神であるクリシュナに真の姿を見たいと望み、クリシュナがそれに応えて神の姿を現す。

それは「多くの口と眼、多くの腕と腿と足、多くの腹を持ち、多くの牙で恐ろしい、あなたの巨大な姿」であり、「これら人間界の勇士たちは、燃え盛るあなたの口の中に入る。蛾が大急ぎで燃火に入って身を滅ぼすように、諸世界は大急ぎであなたの口に入って滅亡する」姿である。

恐れ慄き取り乱したアルジュナは、ひれ伏してもとの姿に戻ってほしいと願う。
すると、人間の温和な姿に戻ったクリシュナが、やさしく言う。
「私のために行為し、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意ない人は、まさに私に至る。アルジュナよ」。

この、究極の恐怖と柔和な旋律の対比により、神クリシュナにすべてを委ねるしかないという宿命が腑に落ちる。


この文庫本の読み方としては、まずp.18の家系図を見ながら、「まえがき」にあるマハーバーラタのあらすじを一気に読む。
登場人物が異常に多いがギーター本編にはほとんど関係ないので斜め読みで結構。
次に巻末の「解説」を熟読。
ようやく本編に入るが、再度「解説」をガイドにしながら読むとよい。
訳注は学問的な解釈方法についてなので見る必要はない。

西村 賢太「随筆集 一私小説書きの弁 (新潮文庫)」 ★★★☆☆


西村 賢太「随筆集 一私小説書きの弁 (新潮文庫)」

あとがきで、賢太自身が「アル中の一私小説書きの、とりとめのないクダ話」と位置付けているのが本書です。
これがまた面白い。

内容は賢太があちこちに書いたエッセイや解説などの再録なので、清造に関してはもういいよっていうほど何度も同じ話が出てくるし、誰やらの本の解説が突然出てくるのでその本がどんなものか気になるし、色々と気が散るのですが、今まで読んできた賢太の「私小説」ではなく、「私小説家であるところの賢太自身」が書かれているのがおもしろい。

賢太の小説で「根が○○にできている私は」という表現が何度も出てくるのですが、これがかなり私のツボです。
今回の随筆集にも何度も出てきて、そのたびに笑ってしまいました。本作で気づいただけでも

・根が厚顔な私は
・根が未練にできている私は
・根がどこまでもスタイリストにできているところの私であれば
・私は根が随分と厭き性にできており、

と、出てくる出てくる。
だいたい自分の悪行や、見得や嫉妬による復讐などの言い訳めいたことに使われるのですが、ほんまに最悪やな、と毎度笑ってしまいます。
そういえば先日読んだ清造の「根津権現裏」にも同じ表現ありました。



清造の再評価を生きがいとしている賢太は、どういう思いで自分でも小説を書いているのか、と常々不思議だったのですが、なんとなくその心象風景も読み取れました。
大雑把に言うと、彼は浅薄なフィクション小説にものすごい嫌悪感を感じているようで、そのフィクション小説家たちがもてはやされたり、読者や出版社が喜んだりするのを、吐き捨てたいくらい軽蔑しているようです。

わずかにこれらの作中には、作者の頭の中だけで、観念だけで暴力を語ったり、登場人物を都合よく動かしたりしてる部分が微塵もないところに、当今のバカな読者やバカな評者、編集者なぞがよろこびそうな小説よりも、いくらかマシな面がなかろうかとの思いもなくはないが、これは他の鑑賞眼の全てに、良しとしてうつるものでもあるまい(もっとも私個人は、こと小説に関しては、ただ才に任せただけの観念の産物よりも、その作者自身の地と涙とでもって描いてくれたものでなければ、まるで読む気もしないし書く気も起こらぬが)。(「『どうで死ぬ身の一踊り』跋」より)

そういう、賢太から見るとヌルく幼稚な読書人が多勢を占める世間では「大正期の私小説」なんて、清造その人と同じように、軽蔑さえされず忘れ去られているのが現実ですが、そこにそういう人々が目を覆い罵倒を浴びせざるを得ないくらい下劣強烈な内容とタイトルの私小説を暴露することによって、清造という存在、私小説という存在、ひいては自分自身を、無いこと同然の存在から、「有」しかも「異形の者」として屹立させる、それを目的としているのではないか、と感じます。

それに魅力を感じる我々も、普段はないことにしているある種私小説的なもの、つまり自分の中の暗部とその奥にある膿汁を、賢太に首根っこを掴まれて覗かされる、そういう魅力にハマっているということなのですが、賢太がさらに魅力的なのは、そこに諧謔的な笑いのツボが多々あることが理由のように思います。
悲惨なのに、笑ってしまうのです。