藤澤 清造「根津権現裏」 (新潮文庫) ★★★☆☆

藤澤 清造「根津権現裏」 (新潮文庫)

きっかけ=piyoからお借りして。

piyoもレビューの中で独りごちていたように記憶していますが、一体西村賢太にはまった人の何人が、この「根津権現裏」まで読むのでしょう。
氏の人生を変え、その人生の拠り所、というか生きがい、どころか“生きることそのもの”にまでなってしまった感もある、藤澤清造というその人の、正しくその再評価をするということの、稲妻のようなきっかけとなったのがこの「根津権現裏」なわけです。

帯にはこうあります。
「恋人が欲しい、手術もしたい。私は、ただ一図に金が欲しい。」
読み終わった後、この絶望的で悲痛な叫びが、一筋に深く、しみじみと身に突き刺さります。
金がほしい、ということに対して、あいまいで無邪気な願望しか持っていない私は、穴があったら入りたいくらいの気持ちになりました。


私小説であるこの長編の主人公はもちろん清造自身なわけですが、その貧乏さは本当に凄まじく確固としており、墨絵の版画のようにクッキリと浮かび上がります。
彼の一挙手一投足、息遣いひとつが、貧しさそのものです。
主人公の友人、岡田が発狂して縊死にいたった経緯や原因を、岡田の兄に聞かせるという物語がメインなのですが、その場面にたどり着くまでものすごくしつこい、ねちこい。今までの賢太の筆によって聞かされた“くどい”“ねちっこい”との清造評も深く肯けます。


賢太の作品でもいつも感じていて、この「根津権現裏」でも同じ印象を受けたのですが、物語のラストスパートが凄い。
終わりに近づけば近づくほど、加速度的に陰惨さを極め、引きずり降ろされるような気がします。
ダメのダメ押し、人間失格の烙印を、墨汁で塗りたくられるような気持ちになるのです。
救いのない、落ちもないエンディング。ほんのひとかけらの諧謔だけが救いのような・・・。
これが賢太であり清造の魅力ではないか、ということに、本作で気付きました。


最後に、岡田の亡霊が主人公にこう言います。
「もう僕達の落ちていく穴はきまってるよ。何もそんなにびくびくするがものはないよ。どうだい。やっぱり痛むのかい。」
ものすごく生々しく、私の足の向こう脛あたりに、岡田のひんやりした指先が触れるのを感じました。


いつも解説を先に読む私も、この本だけは最後に取っておきました。
当然、賢太が書いているのですが、やはり味わい深かったです。
自身の芥川賞受賞をきっかけに、この作品が新潮社から発刊されたことに対して、彼ならではの感慨が隠さず述べられており、いかにも賢太らしいと最後に笑ってしまいました。

西村 賢太「暗渠の宿 (新潮文庫)、「二度はゆけぬ町の地図 (角川文庫)」 ★★★☆☆

 

西村 賢太「暗渠の宿 (新潮文庫)」

西村 賢太「二度はゆけぬ町の地図 (角川文庫)」

きっかけい=piyoからお借りして。

久々に賢太です。
賢太は、それなりに心の準備をした上で、続けて読まないといけません。

以前読んだ三作のインパクトが強すぎて、今回の作品にはさほど驚きはなかったのものの、あいも変わらない氏の愚劣極まる悪行の顛末と、これでもかという粘着気質に、畏怖さえ感じる・・・といった感想です。


「暗渠の宿」には、例の同居女性が出てきます。またかーい!!!
女がサンシャインの水族館に行きたいと言っているのに、またもや清造がらみで上野動物園の熊見物に引っ張って行ったあげく、帰りに寄った古書店でいざこざを起こし、それに嫌な顔をした女に家に帰ってから復讐をするといういつもの展開。たまりません。

さらに、もう一編の「けがれなき酒のへど」では、風俗女性にいれあげて100万円近くを騙し取られる話も出てきます。今までにも何度か挿話的にこの話が出てきていたので、これか!!!と感慨深い。


「二度とはゆけぬ町の地図」で描かれているのは十代の賢太です。貧乏さが半端ではありません、四十歳の今も貧乏な賢太ですが、中卒の17歳やら18歳なんて、雇ってくれるところもないし、たまに職にありついても必ずやトラブルを起こして続かない。家賃は滞納して大家に追い出される。こんな人がなぜいつ読書に精を出していたのか、つくづく不思議です。

バイト先でまたもや傷害事件を起こし、運悪く警官に暴力をふるったためにとうとう拘置所で12日間を過ごすハメになる話のタイトルは「春は青いバスに乗って」。センス良すぎ!!!

収録されている四編のうち最後のタイトルは「腋臭風呂」ってまたもう!
この中に、なんとあの例の女性(秋恵)と別れた後の話が出てきます。
うーん気になるのは秋恵との別れの顛末。さぞや壮絶なのでしょうが、いつか書いてくれることを期待したいものです。

池谷 裕二「単純な脳、複雑な「私」」 ★★★★★

池谷 裕二「単純な脳、複雑な「私」」

きっかけ=piyoにお借りして。

本当はもっと前に読み終わっていたのですが、なかなか自分で納得できるレビューをかけないまま時間が過ぎてゆき・・・もう納得はあきらめて掲載します。
久々に、★5つの本と出会えました。



この前に読んだ「進化しすぎた脳」は、著者がNY留学中に、NY在住の日本人高校生を相手に連続講義をした講義録でしたが、本書は著者が帰国し、「あのような講義を日本でもやってみたい。それも出身高校で!」という著者自身の提案を実現したもの、だそうです。

今回、池谷氏の著書を3冊続けて読みましたが、本書が一番読み応えありました。(もしかすると3冊目だったので自分が慣れただけかもしれませんが・・・)
副題に「または、自分を使いまわしながら進化した脳をめぐる4つの講義」とありますが、この「自分を使いまわしながら」という点が非常におもしろく、「そうだったのか!」と「そりゃそうだ!」という気持ちが混ざったような感想でした。


どういうことかといいますと・・・
我々の脳は、生物として進化する過程において、この場合はこう認識してこう動いた方がよさそう、ということを繰り返して、今の認識・行動になっている、ということです。

つまり、今私たちが「見える=そのように存在している」と思っているものは、それが絶対的な存在のあり方ではなく、人間なら2つの目が、顔のこの位置にこういう構造でくっついていて、過去こういう風に識別するとうまく行動できた(敵から逃げられた、食物を獲得できた)から、このように見えるだけであって、これが4原色の昆虫だとまったく違う景色であり、まして超音波を認知しているコウモリにはどんな風に世界が感じられるだろう、ということです。
だから、「逆さメガネ」をかけると、最初は気持ち悪くて何もできなくても、1カ月もすればまったく問題なく日常生活を送れるようになる。

「僕らにとって、『正しい』という感覚を生み出すのは、単に『どれだけその世界に長くいたか』ということだけなんだ」
「もし自分の個人的な価値基準を、正誤の基準だと勘違いしちゃうと、それはいわゆる『差別』を生んでしまう。残念ながら、人間って自分の感じる世界を無条件に「正しい」と思いがちだよね。この癖には慎重に対処しないといけない。そう、謙虚にならないと。」(p.111)

サラリとおっしゃっていますが、ものすごく心に響く一言です。
さらにこの後、氏は自分が小1のときに描いた、日本だけが異常に大きく詳細に描かれた世界地図を取りだし、これは我々のモノゴトの捉え方とまったく同じだと喝破している。

「こうやって自分の知っていることを通じて世界が歪められている。」
「こういうのって、子どもの絵だから何だかおかしいけど、でも、よく思い返してみれば、僕らの大人の心だって、これと大差ない。」(p.118)

さらに続けて、「『正しい』は『好き』の言い換えにすぎない」という見出しになります。もう膝を打つしかないです。

「もう一歩踏み込んで言えば、『正しい』というのは、『それが自分にとって心地いい』かどうかなんだよね。」
「実際、普段の生活の中で、誰かに対して『それは間違ってるよ』と偉そうに注意するときって、その『間違ってる』を、『おれはその態度が嫌いだ』と言い換えても意味は同じだよね。」(p.120)

これを言われた高校生は、どう思ったでしょうね。
私が高校生だったら、そんなことはない、世の中にはやはり正義も悪もあり、間違っているものは間違っている、と思ったと思います(笑)
すぐ納得できる高校生がいたら怖いです。



これ、まだ前半部分です。
一番おもしろいのは第四章「脳はノイズから生命を生み出す」です。
泣きたいくらい、人間という存在が歪(いびつ)で支離滅裂であり、しかしその歪さ、支離滅裂さが、弱いシグナルを増発させたり、爆発的なエネルギー源になったりする、ということが解き明かされます。
本書の頁端にその歪さ(ノイズ)が想定外の結果を生むことがわかるパラパラマンガがあり、これも秀逸なプレゼンテーションです。


第四章の素晴らしさをお伝えするには私の筆が追いつかないのですが、本当に素晴らしい。
自分の脳みそが拓かれていく感じがします。脳みその解説を読んで脳みそが拓かれる(笑)


「おわりに」で、筆者は「今回のこの本は、私が出してきたすべての本の中で、いま一番思い入れがあって、そして、一番好きな本であることを、正直に告白したいと思います」と記しています。
確かに、本書には何やら奇跡的な輝きと躍動感がある、と感じました。

レイチェル・ボッツマン, ルー・ロジャース「シェア 〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略」 ★★★☆☆

シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略からビジネスを生みだす新戦略

きっかけ=piyoにお借りして。

分厚い本で、通勤中に持ち歩くのが大変でしたが、なんとか読了。

いまこの瞬間にも、あちこちで発生し、拡がりつつあるソーシャル上の「共有」サービス、コミュニティについて、多くの事例を挙げながら分類解説し、今後の予測を示唆したのが本書です。
2010年12月初版で、いま2012年5月。この種の本はすぐに陳腐化してしまいますが、読んでよかったし、特にビジネスパーソンは今すぐ読むべきだと思います。

「共有」をテーマとする様々な活動を、筆者は「コラボ消費」と名付けていますが、有象無象のこの現象を、3つのタイプに分けています。

コラボ消費は3つのタイプに分けられる。

・プロダクト=サービス・システム
・再配分市場
・コラボ的ライフスタイル

・プロダクト=サービス・システム
ある製品を100%所有しなくても、その製品から受けたサービス-つまり利用した分-にだけお金を払うという、「所有より利用」の考え方
カーシェア、太陽光発電、コインランドリー、P2Pで貸し出し

・再配分市場
ソーシャルネットワークをとおして、中古品や私有物を、必要とされていない場所から必要とされるところ、また必要とする人に配りなおす。
一般的に中古品市場のこと。

・コラボ的ライフスタイル
同じような目的をもつ人たちが集まり、時間や空間、技術やお金といった、目に見えにくい資産を共有すること。
地域密着型が多い。
オフィスシェア、ガーデンシェア、ライドシェア、ソーシャルレンディング、カウチサーフィン

最初の2つはリアル市場でも馴染みのあるものが、ネットという環境でブレイクスルーした、という例が多いですが、
やはり目新しいと感じるのは3つ目の「コラボ的ライフスタイル」。
フリーで仕事をしている人同士が集まってコミュニケーションを楽しむ「オフィスシェア」、ホテルに宿泊するのではなく現地に住む人の家のカウチに寝かせてもらって、地元の人しか知らないレストランやバーを教えてもらったり、地元人とのコミュニケーションを楽しむ「カウチサーフィン」。
コミュニティを作り、共有することで、人と人とのつながりができて、それ自体を楽しむためにまたシェアする、という好循環が生まれています。


これらの「コラボ消費」でキーとなってくるのは、どうやって見も知らない相手を信頼するのか?ということなのですが、サービスの利用者、提供者それぞれが「評価」されることで、その人物やサービスの信頼性を測られる、と言われています。


この「コラボ消費」のみならず、最近のネットではSNSをはじめ、多くの「評価」が飛び交って、私自身もその「評価」を大変大事な参考要素としていますが、改めてこういう書籍を読んでみると、ちょっと怖いな、という気もしてきました。
近い将来、ネットでの人物評価が、その人自身の「世の中の評価そのもの」になる日も近いような気がします。

雇用も結婚も、その評価が悪い人とはご縁を遠ざけたいですよね・・・。
今まで、ちょっと引越したり転職すればリセット可能だった人生が、そうはいかなくなるのでしょうか。


それはともかく、こういう「シェア」の動きや、それをきっかけに昔あった、お隣さんから剪定ばさみを借りて庭のお手入れをする、というライフスタイルの復活があることは、ぜひ気をつけたい動向だし、望ましいことだと思います。

迷惑をかけあい、あるいは一方的にかけられ、それを疎ましがっても容認しながら生活することこそ、人間の暮らしそのものだと思うのです。

池谷 裕二「進化しすぎた脳 (ブルーバックス)」 ★★★☆☆

池谷 裕二「進化しすぎた脳 (ブルーバックス)」

きっかけ=piyoからお借りして。

著者がNY留学している際に、日本人高校生数人を相手に連続講義をしたときの講義録。
高校生たちと一緒に取り上げるテーマがとても、哲学的です。
「脳」をテーマとした禅問答、という印象を受けました。

ただし、禅問答の場合は、絶句したときは絶句したまま、それを積み重ねて禅の根本に近づくというアプローチを取りますが、
池谷先生の場合は脳科学研究者だけあって、絶句したままにせず、そこにある汎用的な定義付けをされます。
しかし池谷先生は、完全ではないがそれでも定義するなら、という前提での定義であり、定義だけでは説明できない現象については「科学ができることはしょせんここまでだよ」と割り切っています。
科学者として、とても真摯な態度だと感じます。

たとえば、「意識がある」ことの最低条件は、
(1)表現の選択
(2)ワーキングメモリ(短期記憶)
(3)可塑性(過去の記憶)
の3つとしています。
この3つなら、高度な知能を持つコンピュータが条件が揃ってしまうのでは?という突っ込みに対して、「そうだね、それが科学の限界だ」とサラリと答えます。
しびれますねー。

高校生に対する4回の連続講義のうち、第2回(第2章)が一番おもしろかったように思います。
この本は目次だけ見ていてもワクワクしますが、第2章には

「目ができたから、世界ができた」
「人間は言葉の奴隷」
「『悲しいから涙が出る』んじゃない」

などの小見出しがあり、このへんがとても共感しました。

私たちの見ているもの、感じること、思うことは、すべて限定・歪曲されているけれど、そのようにしか知覚できないし理解できない。
だからといって投げやりにもなりたくない。
自分が見ているもの、思うことが「正しい」のではなく、「偏っている」という前提で、それでも真実にアプローチしたいという情熱を持つ、
常にそういう態度を取りたいものです。

脳科学を追求すると、そういう哲学に行きつくんですね。
いや、何を追求しても、行きつくところはそういうことなのかもしれません。

池谷 裕二「脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)」 ★★☆☆☆

池谷 裕二「脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)」

きっかけ=piyoからお借りした一冊。

脳科学者、池谷祐司先生の「脳科学エッセイ」。
氏の著書は初めて手に取りました。いま二冊目「進化しすぎた脳」を読んでいるのですが、ちょっと読む順番を間違えたような気がします。先に「進化~」を読んだ方がよかったかな。

「脳はなにかと~」の方は、氏の専門である神経生理学やシステム薬理学を、おもいっきり週刊誌ネタまで引き下げたテーマに落として、エッセイとして語ってしまったという大胆不敵な一冊です。

どのくらい引き下げたかというと、Amazonの紹介文にこう書いてます。

「恋愛、ダイエット、不眠、ド忘れ、ストレス、アルコール…脳のすごさがわかった!」

確かにそういう内容もでてきます。が、アプローチとしては脳科学専門誌に発表されている最新の研究論文を挙げながら、例えば身近な例でいうと・・・ということで、不眠やら恋愛やらに絡めて解説する、という方法です。

この、「こうすればダイエットになる!」とか、「ストレスに効く!」というようなネタ自体が、ワタクシ苦手でございます。こういう、いかにもおばちゃんが喜びそうなネタに拒否反応が出るのです・・・きっと自分がもうちょっとマシな人間だと思いたいからです。しょうもないプライドが邪魔をするのでしょう。

このような「しょうもないプライド」を、どうやら池谷先生はお持ちではないようです。
最新の脳科学の研究からわかった最先端の知見を、こともあろうに「恋愛」やら「ダイエット」をテーマに解説するとは・・・おそらく専門家たちからは煙たがられる存在でしょう。しかし氏はそんなことは全く気にせず、どうしたら専門家の視点をブレイクスルーして、一般人(もっというと中高生)の、脳やこころに対する知的好奇心に応えられるか、ということを常に意識されているようです。

本書で初めて知ったことも色々とあるのですが、特に興味深かったのは「記憶」の構造です。脳へのインプット→記憶HDDへの保存、までは理解できますが、その保存したファイルを取りだして再生するときに「書き換え」や「消去」が起こるとは。「再生(つまり復習)」が「記憶の強化」には効果大、とだけ思い込んでいましたが、いいかげんな再生をすると、せっかく記憶したものが改ざんされたり消されたりするのですね。

あと、睡眠と記憶の関係性も興味深かったです。
一晩寝ると勝手に頭が整理されることは誰でも実体験で知っていることですが、レム睡眠の間に「起きている間のことを超早送り再生する」ことで記憶HDDに書き込んでいっている、ということは初めて知りました。おもしろいですねー。

このあと、氏の著書を何冊か読み進むことで、もう少し研究の中心部分に近づけたらと思います。
池谷先生、私と同い年です。写真を拝見すると、髪ボサボサの童顔に大きな黒ぶちメガネ、手にするマーカーで描いているのは詳細な脳地図、いかにも脳科学研究者ぽいです(笑)。
しかし、自身の研究に対する信念がよほど深いのでしょう、でなければこんな柔らかテーマで本は書けないと思います。

ニコルソン ベイカー (著), 岸本 佐知子 (翻訳) 「もしもし (白水Uブックス―海外小説の誘惑)」 ★★☆☆☆

ニコルソン ベイカー (著), 岸本 佐知子 (翻訳) 「もしもし (白水Uブックス―海外小説の誘惑)」

きっかけ=ちょっと笑いたい気分だったので、piyoからお借りした本からこちらをチョイス。

男性と女性の電話の会話だけで全編構成されている小説。しかもその二人の会話は「テレホンセックス」。
帯に「前代未聞!」って書いてます。本屋でこの帯を見たなら手に取ることはなかったと思いますが、piyoの書評で面白そうと思い、お借りしました。

短編というわけでもなく、まさかこの小説全編でやーらしいことばっかり話せるわけがないと思っていたら、やーらしいことばっかり話してました(笑)
まあいやらしいといっても電話での会話というのがミソで、結局は二人がいやらしい行為に及んでいるわけではなく、空想上の性ファンタジーなのです。
話はしょっちゅう脱線しまくり、昨日あったことを話している途中にいきなり空想の世界に飛んでいきます。

この、いきなり飛んでいくあたり、実は少々私の苦手分野です。
外国文学ってどうして、空想上のことが異常に具体的なんでしょう。
この小説なら、電話の相手の彼女は小さなアクセサリー店のセンスと腕のいい技術工で、ある日そこに食器洗浄機でうっかり傷をつけてしまった銀のスプーンを修理してもらいたいという男性客が来店する、という挿話が出てくるのですが、これがすべて電話相手の男性の空想物語で、“小さなアクセサリー店”すら実在しません。
赤毛のアンかい!と突っ込みたくなるのですが、こういう話の延長でエッチなあんなことやこんなことに発展してゆきます。

まあ本物のエロ小説ではないので、二人の電話での会話だけから成り立つ性ファンタジーの、あっちにいったりこっちにいったり、その阿吽の呼吸こそが妙味であり笑えるポイントでもあります。
でも、もともと外国文学のファンタジーものが苦手な私なので、星は少なめになってしまいました。

piyoの評では、この翻訳はお見事!らしいですよ。
英語がわかる人でないと妙訳に感動もできないものだな、とションボリ(当たり前か)。