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マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」 ★★★☆☆

マイケル・サンデル「それをお金で買いますか――市場主義の限界」

きっかけ=ちょうど『これからの「正義」の話をしよう』を読んでいるときに、書店の平台に新刊書として山積みされていました。これは読まねばと購入。

引き続き、サンデル氏の著書です。
『これからの「正義」の話をしよう』と比べると、本の装丁や厚みはほとんど同じなのに字は倍くらい大きいので、文量は半分くらいでしょう。でも価格は100円しか変わらない(笑)。出版社の戦略に乗ってしまいました。

(以下、Amazon.comより引用)

結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。
(本文より)

私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引になんら問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。
だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。

本書で、注目した視点は2つあります。
ひとつは、「財」を「善」と言い換えている、すなわち「善」は「ある社会にとっての財産(つまり価値そのもの)」である、ということです。
はじめのうち、「財[善]」と注釈をつけていますが、後半で読者が慣れてくると、単に「善」としています。
「財産」というと「お金」というようなイメージが付きまとうので、最初は違和感があるのですが、氏が言いたいのは、「財」とはその社会にとっての「善」であるからこそ「財(つまり価値)」でありえる、という前提に則って議論を進めましょう、ということだと思います。
ふたつめは、「お金で買う」ことによって生じる堕落を、「腐敗」と表現していることです。

われわれは、腐敗というと不正利得を思い浮かべることが多い。だが、腐敗とは賄賂や不正な支払い以上のものを指している。ある財[善]や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(p.53)

事例として、北極圏に住むイヌイットが特別に認められているセイウチ猟の権利をハンターに売ることについて、氏はこう記しています。

イヌイットが自分たちに割り当てられたセイウチを殺す権利を外部の人間に売れば、そもそも彼らのコミュニティーに認められた例外扱いの意味と目的が腐敗してしまう。イヌイットの暮らしに敬意を払い、昔から生活の糧としてきたセイウチ猟を尊重することと、その特権を、片手間に動物を殺す現金利権へ変えてしまうことは、まったく別なのだ。(p.123)

「財=善」を売るということは、二重の意味での問い立てが発生します。
まず、その売ろうとしている「財」は、本当に自分の(または社会の)所有物か、と問い。
たとえば、自分の体は自分の所有物か。当たり前だ、という考え方と、体は所有物ではない、という考え方。
次に、その財を売ることは、財の持つ本来の価値を貶めるものではないか、という問い。
自分の体に値段を付ける少女は、自分に価値をつけているつもりで、貶めているのではないか。

たとえば、地方自治体が、財政難だからといって、安易に公共施設や駅の「命名権」を売る行為。
渋谷公会堂が「C.C.レモンホール」になったとき、なんじゃそれはと思ったのは私だけではないでしょう。
その場所で忘れられないコンサートを見た人も、その舞台に立った人も、貶める行為です。
渋谷公会堂を自分たちの所有物だと考えている渋谷区さんにも、ぜひ本書を読んでいただきたいものです。


本書にはこれらの基準を問う、多くの事例が挙げられています。
市場原理主義に浸かりきって、教育の場にまで持ち込まれても何も感じなくなった我々は、目を覚ます必要があります。
小学校の授業に銀行の人がやってきてお金の話を教える。これを賞賛する学校と親がいる。私には狂っているとしか見えない寒々しい光景ですが、ほとんどの大人がこれを支持しているのが現実です。
さきほど挙げたような「命名権」も、最近はあまり奇妙だと感じなくなった自分自身に恐ろしさを感じます。


冒頭のメッセージ「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。」という言葉は、とても深いと思います。
「共生」は、「市場」と対の意味をなします。「市場」は個人主義のことであり、「共生」は寄り添って営むもの。
「市場」の価値を求めると、「共生」の価値は減じる。

「市場原理主義」の価値観が浸透しきって、「共生」が限りなく無価値なものになっている今、もう一度「お互いに迷惑をかけ、かけられる、面倒な共生関係を引き受ける」ことの価値を、氏は本書を通して我々に問いかけています。

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」 ★★★★☆

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」

きっかけ=piyoにお借りして。

久々に、真っ芯から哲学的な問い立てをしている本を読みました。
タイトルが「正義」ですよ。

齢四十を越え、この世の中に「これが正義である」というようなものがあるとすれば、大きな勘違い以外の何者でもないということを、投げやりでも諧謔でもなくそう本当に思っている訳でして、
そこに「正義の話をしよう」などと言われると身構えること甚だしく、自分だったら決して手に取らない本だったと思います。
が、piyoの書評を読んで、これは読まねばならないぞと感じた次第。


政治哲学者でありハーバード大学教授であるマイケル・サンデル氏のことは、本書で初めて知りました。
2010年にNHK教育テレビで氏の大学講義録「ハーバード白熱教室」が放映されて日本でも有名になったということで、ぜひとも放映見たかったです、残念です。

本書では、いくつもの「それが正しいかどうか判断できない」という例が出てきます。
代理母出産は正義か?なぜ志願兵はよくて傭兵(または徴兵)はよくないと感じるのか?マイケル・ジョーダンの報酬は正当か?
これらを、「幸福」「自由」「道徳」の3つのアプローチから、我々が何を根拠に「正義」「非正義」と判断するのか、ひとつづつ丹念に紐解いてゆきます。

正義への三つのアプローチ

ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの-収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉-がどう分配されるのかを問うことである。公正な社会ではこうした良きもものが正しく分配される。つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うときである。

われわれはそうした問題をすでに考えはじめている。便乗値上げの是非、パープルハート勲章の受章をめぐる対立、企業救済などについて考えながら、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。(p.29)

・幸福の最大化--功利主義=最大多数の最大幸福が「正義」
・自由の尊重--自由至上主義(リバタリアニズム)=個人の自由な選択を最大限尊重することが「正義」
・美徳の涵養--共通善に基づく美徳の涵養や善良な行動が「正義」

読み進んでゆくと、いかに私たちの脳みそが、「功利主義」や「自由至上主義」という価値観で無意識に物事を捉え判断しているか、身にしみます。
私たちがごく自然に「正しい」と感じること、「気持ちいい」と感じることについて、丁寧に紐解いてゆくと、無意識のうちに「功利的」「自由主義的」に判断している。

サンデル氏が強調したいのは、3つ目のアプローチ方法、「美徳の涵養」つまり道徳的な正義の指針です。
しかし、「道徳的な判断を正義の指針としよう」というと、少し身構えませんか?
なぜかと考えてみるに、それは「個人の自由を損なう匂い」がするからですね。

「何をもって正義とするかは私自身の判断でしょ?道徳的って誰にとって道徳的なの?判断基準を統一にするのは危険、まるで宗教。」
そう言いたくなるとすれば、頭からどっぷり「自由至上主義」に浸かって生きているからです。。。


氏は本書でまず、功利主義の限界、自由至上主義の限界を語り、3つ目のアプローチ法を述べるにあたっては注意深く、イマヌエル・カントの「自律」の概念を解説した上で、最終章の「正義と共通善」に向けて持論を進めてゆきます。
カントの教えは初めて学びましたが、究極的にストイックですね。


大変内容の濃い一冊で、うまくまとめきれないのですが、私自身が三十代前半に疑問に思ったことの多くが言及されていると感じました。
昔疑問に思ったことというと、たとえば、私はこの右手を伸ばして何かをするとすれば、そうすることが「善」いと思ってそうするに違いないはずだが、「悪い」と思っていても右手を伸ばすことがある。
それは何かと考えると。。。「快楽」だな、と考えました。
たばこに手を伸ばすこの手は、「善」を求めているのではないけれど、「快楽」を求めているのだな、と(昔の話ですょ)。

私の中でずーっと、「善」の反対は「悪」ではなく「快」であり、選択の場面で、「快」ではなく「善」を選択できるか、というのが人生のテーマでした。
論語に、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」とありますが、そうか七十歳になると、快楽を求めても善になるのか、それなら七十歳になってみたいなあと思いました(今でも思っているし、楽しみ)。

・功利主義とは、「快」を求めることが「善」であり「正義」だ、という考え方であり、
・自由至上主義は、「快」でも「善」でも、どちらが「正義」か決めるのは私だ、という考え方であり、
・美徳の涵養は、「快」ではなく「善」こそが「正義」だ、という考え方です。

そういうことが、本書でもっともっと深みをもって、語られております。
哲学的な問いに興味のない方はこの世にいないと思います。ぜひ手にとって、考える機会に。