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内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」 ★★★☆☆

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」

きっかけ=piyoにお借りして。

内田先生の代表作として、処女作「ためらいの倫理学」とともに挙げられることの多い本作、以前から一度読んでみたいと思っていました。

本書は2003年8月から翌年の3月までの、朝日カルチャーセンターでの講演録が元になっているらしいです。
この前に読んだ「最終講義」も講義録ですが、ブログ転載本よりテーマや文体に統一感があって、一冊読み終えたときに充実感があります。

内田先生の持論に、「人間は、埋葬することによって他の霊長類から分岐して人間になった」というものがあり、本書にも出てきます。
タイトルの「死」がコミュニケーションの磁場である、という意味がよくわかる一説を、ちょっと長いですが引用します。

他者とは死者のことです。
人間は死んだ者とさえも語り合うことができます。それは言語の準位ではないし、身体感覚の準位でもない。もうひとつさらに深いところにある回路で起きている出来事です。
人間は死者とコミュニケーションできる、あるいは「死者とコミュニケーションできると自分のことを考えた生物を人間と呼ぶ」と定義してもいいと思います。
ご存じのように類人猿と人類がわかれた指標のひとつは、霊長類のなかで人類だけが葬式をしたということです。四万年前に「死の儀礼」をもったことによって、人間は猿から人間に進化しました。ということは、人間の定義というのは「葬礼をするもの」だということです。葬礼をするということは、死者は物体ではないということです。死者は死んで「いる」わけです。まさにetre mort(エートル・モール)というかたちで、そこに死んで「いる」。
わたしたちが遭遇するいちばんの劇的な倫理的状況は、自分が目の前の誰かの首をしめてまさに殺さんとしている状況でしょう。そのときにわたしたちは「汝、殺すなかれ」ということばを聞き取る。でも、それはことばではない。それは死につつある人のさらに「向こう」からくるメッセージなんだと思います。死者からのメッセージ、死につつあるものからのメッセージ、つまりダイイング・メッセージを聞き取る能力が、人間の人間性を基礎づけている根本的な能力だと思います。(p.194)

なるほどですね。私たちは死者からのメッセージを聞くことによって、倫理的な判断をしているのです。
目の前にいる人に「なぜ人を殺してはいけないのですか」と平然と問える人がいたとしても、死者にそれを問う人はいないでしょう。


内田先生の「死」をめぐる考え方は、上の持論が基礎となっています。
では「身体論」については・・・これがなかなか論旨を定めることが難しいのですが、それも当たり前で、要は「脳でわかろうと思うな、身体でわかれ」とおっしゃっているわけです。

本も身体で読め。口で話していることだけでなく、非言語メッセージを身体で読み取れ。
脳で「わかった」と思ったことは、「わかった」と思った瞬間からスルリと逃げてゆく。だから身体でつかみ取るしかない。
「禅」と同じですね。偉いお坊様が書かれた禅の本を何冊読んでも、まず坐らなければ「禅」がわかったことにはならない。


内田先生は武道家でもありますが、時間をずらすことによってモノにする、という武道家ならではの視点が大変おもしろかったです。
今起こっていることを、自分だけ未来に時間をずらして捕らえ直すと、今起こっていることが過去になる。これができれば相手をモノにできる、というのです。

K-1の武蔵さんの挿話がおもしろいです。
内田先生が「K-1みたいなリアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどういう反応をするんですか?」と訊いたところ、「時間をずらして対処します」と即答されたとのこと。
時間をずらすというのは、相手からパンチを一発受けたその瞬間に、逆に自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」ことで、殴られている「今」を「過去」にしてしまって対処する、ということなのだそうです。
うーん、すごい。

少し前に読んだ池谷祐二さんの著書にも、脳は未来に時間をずらしてから現在を捕らえている、ということが解き明かされていますが、脳も身体も同じなんですね。このことを、池谷氏のように脳科学を突き詰めるという手段ではなく、自分自身の「身体感覚」を高めることで解明してしまった内田先生、やっぱり半端ないです。


ところで、装丁をみて、なんか前もこういう本読んだことあるな・・・と思ったら、「べてるの家の『非』援助論」と同じ。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」だったんですね。
同シリーズの他の作品のタイトルを見てみると、かなり魅かれます。「ケア学」「気持ちのいい看護」「感情と看護」などなど。
本書を同シリーズに入れたことといい、かなり斬新でアグレッシブな匂いがします、「シリーズ ケアをひらく」。注目したいです。

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内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」 ★★★★☆


内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」

きっかけ=piyoにお借りして。

ちょい久々に、内田先生です。
書名の「最終講義」のとおり、神戸女学院大学の現役教授を退任されるにあたり、最後に壇上に立ってお話された講義録から始まり、その他5本の講義録を併せて一冊にしています。

やはり内田先生のライブ(講義)は、ものすごくパワーがあるのだと思います。講義録を読むだけでもビンビン伝わります。
一本勝負の緊張感。
毎度長い枕から、多くは唐突なたとえ話、そして徐々に主題に近づいてくる、と思ったら息抜き、そしてラストスパート、最後の落ちまで、まったく飽きさせないし、ライブを聞いている側のメンバー構成(学生だったり、同窓会のおばさまだったり、教育委員会のおじさまだったりする)によって、トーンを変えたりその場の空気を読んでの間合いも感じられます。

ブログ転載ものとは異なり、初めてウチダ節を聞く人がいるという前提で話が構成されているので、膨大なウチダ本の最初の一冊にもうってつけだと感じました。


計6本の講義録のうち、特におもしろかったのは以下の4本。

Ⅰ 最終講義(神戸女学院大学)2011年1月22日

これは正直、わたしが同校出身であることが理由で感慨深かったです。私が同大学2年生のときに内田先生は赴任されたらしいのですが、在学中はまったく存じ上げず、もちろん講義も受けなかったことが悔やまれてなりません。
しかし、内田先生自身の経験として語られている、入学式がキリスト教の礼拝形式で行われ賛美歌から始まったことに驚いたこと、茂洋チャプレンの祝福の言葉の宛先に自分自身が含まれていることを感じたこと、陰影深いヴォーリズ建築の隠し階段やトイレに驚いたこと、私自身も鮮やかに思い出すことができます。
本書のおかげで、あの大学を選び、卒業してよかったと、改めて(というか初めて)感じることができた次第です。


Ⅲ 日本はこれからどうなるのか?-”右肩下がり社会”の明日(神戸女学院教育文化振興めぐみ会講演会)2011年6月9日

この講義が行われた「めぐみ会」というのは、我が母校の同窓会ですが、笑うくらいすごい集まりです。
女学院卒業ということが大変なステイタスになった時代に生き、三代続いて女学院、というようなお家柄に誇りを持ち、今もそれをアイデンティティにされているご婦人がたくさんおられます。
もちろん私自身は縁がなく、会合なども一度も出席したことがありませんが、当時の学内にも「めぐみ会」の建物があり、品のよいおばさま方が大勢行き来されていたことを覚えています。
その「めぐみ会」の講演で、なんと「北方領土」のテーマから話し始める内田先生。やりすぎです(笑)

なぜ我々は北方領土問題について無知すぎるほど無知なのか、という切り口から、沖縄基地の核保有の可能性に言及し、と思うと母親と父親の育児戦略のちがい、自殺率は平和な時代に上昇する、教育立国をめざすべき、とまあ、言いたい放題でございます(笑)
この一章だけでもかなり読み応えがあります。「めぐみ会」の講義だけで終わらず書籍になってよかったなあーと、しみじみ思う次第です。


Ⅳ ミッションスクールのミッション(大谷大学開学記念式典記念講演)2010年10月13日

大谷大学とは、関西の人なら誰でも知っている仏教大学です。
内田先生の教育論がぎっちり詰まっている一章で、読み応えあると共に感動しました。

『教育というのは、「私にはぜひ教えたいことがある」という人が勝手に教え始める。聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。』(p.171)

学びたい人(つまり市場でいうところの「顧客」)のご要望に沿って、供給側である学校が教育内容を変化させるなど、内田先生に言わせれば本末転倒なわけですが、今はこちらの方が主流の考え方であることを鋭く指摘し、警鐘を鳴らしています。

『「ミッションスクールのミッション」というのは、要するに旗印を鮮明にするということです。特に宗教系の大学の場合、ここ数十年の間に建学の理念がだんだん希薄化していき、クリスチャンのミッションスクールでも、宗教儀礼や必修のキリスト教学をなくしていったり、礼拝の参加義務を緩和したり、入学式・卒業式から宗教色を払拭していったりする傾向があります。「だって、宗教色を払拭しないと、志願者来ませんから」ということを平然と言う人がいる。率直に言って、そういうことを言う人に、大学教育には関わって欲しくない。』(p.188)

『大谷大学もいいじゃないですか、このサイズではなくても。高々と旗印を掲げて、それで学生が減っていったら減っていったでいいじゃないですか。浄土真宗の学校なんか厭だなあというような学生に来てもらうこと、ないですよ。学生数が減ったら、減ったなりにダウンサイジングして、寺子屋みたいなものになっても構わないじゃないですか。教育機関の真の価値は財務内容でも在学生数でもなく、そこでどのような人間を生み出したかということで考量するしかないんですから』(p.188)

感動です。拍手喝さいです。
しかし大谷大学の先生方は、大変な人に講演をお願いしてしまいましたね(笑)
関西随一のミッションスクールとして、ぜひとも踏ん張っていただきたいと思います。


Ⅴ 教育に等価交換はいらない(守口市教職員組合講演会)2008年1月26日

内田先生の「教育に市場原理主義を持ち込むべからず」持論が、一章で簡潔にわかってよいです。
内田先生はずーーーーっとこのテーマにこだわって、色んなところで主張を展開されていますので、知っている人にはおなじみの内容ですが、内田先生の教育論はどれから読めばいいのと言われれば、この一章はピッタリだと思います。

というわけで、6本の講義録のうち4本が必読という、大変内容の濃い一冊でした。

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」 ★★★★☆

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」

きっかけ=piyoにお借りして。

久々に、真っ芯から哲学的な問い立てをしている本を読みました。
タイトルが「正義」ですよ。

齢四十を越え、この世の中に「これが正義である」というようなものがあるとすれば、大きな勘違い以外の何者でもないということを、投げやりでも諧謔でもなくそう本当に思っている訳でして、
そこに「正義の話をしよう」などと言われると身構えること甚だしく、自分だったら決して手に取らない本だったと思います。
が、piyoの書評を読んで、これは読まねばならないぞと感じた次第。


政治哲学者でありハーバード大学教授であるマイケル・サンデル氏のことは、本書で初めて知りました。
2010年にNHK教育テレビで氏の大学講義録「ハーバード白熱教室」が放映されて日本でも有名になったということで、ぜひとも放映見たかったです、残念です。

本書では、いくつもの「それが正しいかどうか判断できない」という例が出てきます。
代理母出産は正義か?なぜ志願兵はよくて傭兵(または徴兵)はよくないと感じるのか?マイケル・ジョーダンの報酬は正当か?
これらを、「幸福」「自由」「道徳」の3つのアプローチから、我々が何を根拠に「正義」「非正義」と判断するのか、ひとつづつ丹念に紐解いてゆきます。

正義への三つのアプローチ

ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの-収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉-がどう分配されるのかを問うことである。公正な社会ではこうした良きもものが正しく分配される。つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うときである。

われわれはそうした問題をすでに考えはじめている。便乗値上げの是非、パープルハート勲章の受章をめぐる対立、企業救済などについて考えながら、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。(p.29)

・幸福の最大化--功利主義=最大多数の最大幸福が「正義」
・自由の尊重--自由至上主義(リバタリアニズム)=個人の自由な選択を最大限尊重することが「正義」
・美徳の涵養--共通善に基づく美徳の涵養や善良な行動が「正義」

読み進んでゆくと、いかに私たちの脳みそが、「功利主義」や「自由至上主義」という価値観で無意識に物事を捉え判断しているか、身にしみます。
私たちがごく自然に「正しい」と感じること、「気持ちいい」と感じることについて、丁寧に紐解いてゆくと、無意識のうちに「功利的」「自由主義的」に判断している。

サンデル氏が強調したいのは、3つ目のアプローチ方法、「美徳の涵養」つまり道徳的な正義の指針です。
しかし、「道徳的な判断を正義の指針としよう」というと、少し身構えませんか?
なぜかと考えてみるに、それは「個人の自由を損なう匂い」がするからですね。

「何をもって正義とするかは私自身の判断でしょ?道徳的って誰にとって道徳的なの?判断基準を統一にするのは危険、まるで宗教。」
そう言いたくなるとすれば、頭からどっぷり「自由至上主義」に浸かって生きているからです。。。


氏は本書でまず、功利主義の限界、自由至上主義の限界を語り、3つ目のアプローチ法を述べるにあたっては注意深く、イマヌエル・カントの「自律」の概念を解説した上で、最終章の「正義と共通善」に向けて持論を進めてゆきます。
カントの教えは初めて学びましたが、究極的にストイックですね。


大変内容の濃い一冊で、うまくまとめきれないのですが、私自身が三十代前半に疑問に思ったことの多くが言及されていると感じました。
昔疑問に思ったことというと、たとえば、私はこの右手を伸ばして何かをするとすれば、そうすることが「善」いと思ってそうするに違いないはずだが、「悪い」と思っていても右手を伸ばすことがある。
それは何かと考えると。。。「快楽」だな、と考えました。
たばこに手を伸ばすこの手は、「善」を求めているのではないけれど、「快楽」を求めているのだな、と(昔の話ですょ)。

私の中でずーっと、「善」の反対は「悪」ではなく「快」であり、選択の場面で、「快」ではなく「善」を選択できるか、というのが人生のテーマでした。
論語に、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」とありますが、そうか七十歳になると、快楽を求めても善になるのか、それなら七十歳になってみたいなあと思いました(今でも思っているし、楽しみ)。

・功利主義とは、「快」を求めることが「善」であり「正義」だ、という考え方であり、
・自由至上主義は、「快」でも「善」でも、どちらが「正義」か決めるのは私だ、という考え方であり、
・美徳の涵養は、「快」ではなく「善」こそが「正義」だ、という考え方です。

そういうことが、本書でもっともっと深みをもって、語られております。
哲学的な問いに興味のない方はこの世にいないと思います。ぜひ手にとって、考える機会に。

西村 賢太「随筆集 一私小説書きの弁 (新潮文庫)」 ★★★☆☆


西村 賢太「随筆集 一私小説書きの弁 (新潮文庫)」

あとがきで、賢太自身が「アル中の一私小説書きの、とりとめのないクダ話」と位置付けているのが本書です。
これがまた面白い。

内容は賢太があちこちに書いたエッセイや解説などの再録なので、清造に関してはもういいよっていうほど何度も同じ話が出てくるし、誰やらの本の解説が突然出てくるのでその本がどんなものか気になるし、色々と気が散るのですが、今まで読んできた賢太の「私小説」ではなく、「私小説家であるところの賢太自身」が書かれているのがおもしろい。

賢太の小説で「根が○○にできている私は」という表現が何度も出てくるのですが、これがかなり私のツボです。
今回の随筆集にも何度も出てきて、そのたびに笑ってしまいました。本作で気づいただけでも

・根が厚顔な私は
・根が未練にできている私は
・根がどこまでもスタイリストにできているところの私であれば
・私は根が随分と厭き性にできており、

と、出てくる出てくる。
だいたい自分の悪行や、見得や嫉妬による復讐などの言い訳めいたことに使われるのですが、ほんまに最悪やな、と毎度笑ってしまいます。
そういえば先日読んだ清造の「根津権現裏」にも同じ表現ありました。



清造の再評価を生きがいとしている賢太は、どういう思いで自分でも小説を書いているのか、と常々不思議だったのですが、なんとなくその心象風景も読み取れました。
大雑把に言うと、彼は浅薄なフィクション小説にものすごい嫌悪感を感じているようで、そのフィクション小説家たちがもてはやされたり、読者や出版社が喜んだりするのを、吐き捨てたいくらい軽蔑しているようです。

わずかにこれらの作中には、作者の頭の中だけで、観念だけで暴力を語ったり、登場人物を都合よく動かしたりしてる部分が微塵もないところに、当今のバカな読者やバカな評者、編集者なぞがよろこびそうな小説よりも、いくらかマシな面がなかろうかとの思いもなくはないが、これは他の鑑賞眼の全てに、良しとしてうつるものでもあるまい(もっとも私個人は、こと小説に関しては、ただ才に任せただけの観念の産物よりも、その作者自身の地と涙とでもって描いてくれたものでなければ、まるで読む気もしないし書く気も起こらぬが)。(「『どうで死ぬ身の一踊り』跋」より)

そういう、賢太から見るとヌルく幼稚な読書人が多勢を占める世間では「大正期の私小説」なんて、清造その人と同じように、軽蔑さえされず忘れ去られているのが現実ですが、そこにそういう人々が目を覆い罵倒を浴びせざるを得ないくらい下劣強烈な内容とタイトルの私小説を暴露することによって、清造という存在、私小説という存在、ひいては自分自身を、無いこと同然の存在から、「有」しかも「異形の者」として屹立させる、それを目的としているのではないか、と感じます。

それに魅力を感じる我々も、普段はないことにしているある種私小説的なもの、つまり自分の中の暗部とその奥にある膿汁を、賢太に首根っこを掴まれて覗かされる、そういう魅力にハマっているということなのですが、賢太がさらに魅力的なのは、そこに諧謔的な笑いのツボが多々あることが理由のように思います。
悲惨なのに、笑ってしまうのです。

藤澤 清造「根津権現裏」 (新潮文庫) ★★★☆☆

藤澤 清造「根津権現裏」 (新潮文庫)

きっかけ=piyoからお借りして。

piyoもレビューの中で独りごちていたように記憶していますが、一体西村賢太にはまった人の何人が、この「根津権現裏」まで読むのでしょう。
氏の人生を変え、その人生の拠り所、というか生きがい、どころか“生きることそのもの”にまでなってしまった感もある、藤澤清造というその人の、正しくその再評価をするということの、稲妻のようなきっかけとなったのがこの「根津権現裏」なわけです。

帯にはこうあります。
「恋人が欲しい、手術もしたい。私は、ただ一図に金が欲しい。」
読み終わった後、この絶望的で悲痛な叫びが、一筋に深く、しみじみと身に突き刺さります。
金がほしい、ということに対して、あいまいで無邪気な願望しか持っていない私は、穴があったら入りたいくらいの気持ちになりました。


私小説であるこの長編の主人公はもちろん清造自身なわけですが、その貧乏さは本当に凄まじく確固としており、墨絵の版画のようにクッキリと浮かび上がります。
彼の一挙手一投足、息遣いひとつが、貧しさそのものです。
主人公の友人、岡田が発狂して縊死にいたった経緯や原因を、岡田の兄に聞かせるという物語がメインなのですが、その場面にたどり着くまでものすごくしつこい、ねちこい。今までの賢太の筆によって聞かされた“くどい”“ねちっこい”との清造評も深く肯けます。


賢太の作品でもいつも感じていて、この「根津権現裏」でも同じ印象を受けたのですが、物語のラストスパートが凄い。
終わりに近づけば近づくほど、加速度的に陰惨さを極め、引きずり降ろされるような気がします。
ダメのダメ押し、人間失格の烙印を、墨汁で塗りたくられるような気持ちになるのです。
救いのない、落ちもないエンディング。ほんのひとかけらの諧謔だけが救いのような・・・。
これが賢太であり清造の魅力ではないか、ということに、本作で気付きました。


最後に、岡田の亡霊が主人公にこう言います。
「もう僕達の落ちていく穴はきまってるよ。何もそんなにびくびくするがものはないよ。どうだい。やっぱり痛むのかい。」
ものすごく生々しく、私の足の向こう脛あたりに、岡田のひんやりした指先が触れるのを感じました。


いつも解説を先に読む私も、この本だけは最後に取っておきました。
当然、賢太が書いているのですが、やはり味わい深かったです。
自身の芥川賞受賞をきっかけに、この作品が新潮社から発刊されたことに対して、彼ならではの感慨が隠さず述べられており、いかにも賢太らしいと最後に笑ってしまいました。

西村 賢太「暗渠の宿 (新潮文庫)、「二度はゆけぬ町の地図 (角川文庫)」 ★★★☆☆

 

西村 賢太「暗渠の宿 (新潮文庫)」

西村 賢太「二度はゆけぬ町の地図 (角川文庫)」

きっかけい=piyoからお借りして。

久々に賢太です。
賢太は、それなりに心の準備をした上で、続けて読まないといけません。

以前読んだ三作のインパクトが強すぎて、今回の作品にはさほど驚きはなかったのものの、あいも変わらない氏の愚劣極まる悪行の顛末と、これでもかという粘着気質に、畏怖さえ感じる・・・といった感想です。


「暗渠の宿」には、例の同居女性が出てきます。またかーい!!!
女がサンシャインの水族館に行きたいと言っているのに、またもや清造がらみで上野動物園の熊見物に引っ張って行ったあげく、帰りに寄った古書店でいざこざを起こし、それに嫌な顔をした女に家に帰ってから復讐をするといういつもの展開。たまりません。

さらに、もう一編の「けがれなき酒のへど」では、風俗女性にいれあげて100万円近くを騙し取られる話も出てきます。今までにも何度か挿話的にこの話が出てきていたので、これか!!!と感慨深い。


「二度とはゆけぬ町の地図」で描かれているのは十代の賢太です。貧乏さが半端ではありません、四十歳の今も貧乏な賢太ですが、中卒の17歳やら18歳なんて、雇ってくれるところもないし、たまに職にありついても必ずやトラブルを起こして続かない。家賃は滞納して大家に追い出される。こんな人がなぜいつ読書に精を出していたのか、つくづく不思議です。

バイト先でまたもや傷害事件を起こし、運悪く警官に暴力をふるったためにとうとう拘置所で12日間を過ごすハメになる話のタイトルは「春は青いバスに乗って」。センス良すぎ!!!

収録されている四編のうち最後のタイトルは「腋臭風呂」ってまたもう!
この中に、なんとあの例の女性(秋恵)と別れた後の話が出てきます。
うーん気になるのは秋恵との別れの顛末。さぞや壮絶なのでしょうが、いつか書いてくれることを期待したいものです。

池谷 裕二「単純な脳、複雑な「私」」 ★★★★★

池谷 裕二「単純な脳、複雑な「私」」

きっかけ=piyoにお借りして。

本当はもっと前に読み終わっていたのですが、なかなか自分で納得できるレビューをかけないまま時間が過ぎてゆき・・・もう納得はあきらめて掲載します。
久々に、★5つの本と出会えました。



この前に読んだ「進化しすぎた脳」は、著者がNY留学中に、NY在住の日本人高校生を相手に連続講義をした講義録でしたが、本書は著者が帰国し、「あのような講義を日本でもやってみたい。それも出身高校で!」という著者自身の提案を実現したもの、だそうです。

今回、池谷氏の著書を3冊続けて読みましたが、本書が一番読み応えありました。(もしかすると3冊目だったので自分が慣れただけかもしれませんが・・・)
副題に「または、自分を使いまわしながら進化した脳をめぐる4つの講義」とありますが、この「自分を使いまわしながら」という点が非常におもしろく、「そうだったのか!」と「そりゃそうだ!」という気持ちが混ざったような感想でした。


どういうことかといいますと・・・
我々の脳は、生物として進化する過程において、この場合はこう認識してこう動いた方がよさそう、ということを繰り返して、今の認識・行動になっている、ということです。

つまり、今私たちが「見える=そのように存在している」と思っているものは、それが絶対的な存在のあり方ではなく、人間なら2つの目が、顔のこの位置にこういう構造でくっついていて、過去こういう風に識別するとうまく行動できた(敵から逃げられた、食物を獲得できた)から、このように見えるだけであって、これが4原色の昆虫だとまったく違う景色であり、まして超音波を認知しているコウモリにはどんな風に世界が感じられるだろう、ということです。
だから、「逆さメガネ」をかけると、最初は気持ち悪くて何もできなくても、1カ月もすればまったく問題なく日常生活を送れるようになる。

「僕らにとって、『正しい』という感覚を生み出すのは、単に『どれだけその世界に長くいたか』ということだけなんだ」
「もし自分の個人的な価値基準を、正誤の基準だと勘違いしちゃうと、それはいわゆる『差別』を生んでしまう。残念ながら、人間って自分の感じる世界を無条件に「正しい」と思いがちだよね。この癖には慎重に対処しないといけない。そう、謙虚にならないと。」(p.111)

サラリとおっしゃっていますが、ものすごく心に響く一言です。
さらにこの後、氏は自分が小1のときに描いた、日本だけが異常に大きく詳細に描かれた世界地図を取りだし、これは我々のモノゴトの捉え方とまったく同じだと喝破している。

「こうやって自分の知っていることを通じて世界が歪められている。」
「こういうのって、子どもの絵だから何だかおかしいけど、でも、よく思い返してみれば、僕らの大人の心だって、これと大差ない。」(p.118)

さらに続けて、「『正しい』は『好き』の言い換えにすぎない」という見出しになります。もう膝を打つしかないです。

「もう一歩踏み込んで言えば、『正しい』というのは、『それが自分にとって心地いい』かどうかなんだよね。」
「実際、普段の生活の中で、誰かに対して『それは間違ってるよ』と偉そうに注意するときって、その『間違ってる』を、『おれはその態度が嫌いだ』と言い換えても意味は同じだよね。」(p.120)

これを言われた高校生は、どう思ったでしょうね。
私が高校生だったら、そんなことはない、世の中にはやはり正義も悪もあり、間違っているものは間違っている、と思ったと思います(笑)
すぐ納得できる高校生がいたら怖いです。



これ、まだ前半部分です。
一番おもしろいのは第四章「脳はノイズから生命を生み出す」です。
泣きたいくらい、人間という存在が歪(いびつ)で支離滅裂であり、しかしその歪さ、支離滅裂さが、弱いシグナルを増発させたり、爆発的なエネルギー源になったりする、ということが解き明かされます。
本書の頁端にその歪さ(ノイズ)が想定外の結果を生むことがわかるパラパラマンガがあり、これも秀逸なプレゼンテーションです。


第四章の素晴らしさをお伝えするには私の筆が追いつかないのですが、本当に素晴らしい。
自分の脳みそが拓かれていく感じがします。脳みその解説を読んで脳みそが拓かれる(笑)


「おわりに」で、筆者は「今回のこの本は、私が出してきたすべての本の中で、いま一番思い入れがあって、そして、一番好きな本であることを、正直に告白したいと思います」と記しています。
確かに、本書には何やら奇跡的な輝きと躍動感がある、と感じました。