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内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」 ★★★☆☆

内田 樹「死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)」

きっかけ=piyoにお借りして。

内田先生の代表作として、処女作「ためらいの倫理学」とともに挙げられることの多い本作、以前から一度読んでみたいと思っていました。

本書は2003年8月から翌年の3月までの、朝日カルチャーセンターでの講演録が元になっているらしいです。
この前に読んだ「最終講義」も講義録ですが、ブログ転載本よりテーマや文体に統一感があって、一冊読み終えたときに充実感があります。

内田先生の持論に、「人間は、埋葬することによって他の霊長類から分岐して人間になった」というものがあり、本書にも出てきます。
タイトルの「死」がコミュニケーションの磁場である、という意味がよくわかる一説を、ちょっと長いですが引用します。

他者とは死者のことです。
人間は死んだ者とさえも語り合うことができます。それは言語の準位ではないし、身体感覚の準位でもない。もうひとつさらに深いところにある回路で起きている出来事です。
人間は死者とコミュニケーションできる、あるいは「死者とコミュニケーションできると自分のことを考えた生物を人間と呼ぶ」と定義してもいいと思います。
ご存じのように類人猿と人類がわかれた指標のひとつは、霊長類のなかで人類だけが葬式をしたということです。四万年前に「死の儀礼」をもったことによって、人間は猿から人間に進化しました。ということは、人間の定義というのは「葬礼をするもの」だということです。葬礼をするということは、死者は物体ではないということです。死者は死んで「いる」わけです。まさにetre mort(エートル・モール)というかたちで、そこに死んで「いる」。
わたしたちが遭遇するいちばんの劇的な倫理的状況は、自分が目の前の誰かの首をしめてまさに殺さんとしている状況でしょう。そのときにわたしたちは「汝、殺すなかれ」ということばを聞き取る。でも、それはことばではない。それは死につつある人のさらに「向こう」からくるメッセージなんだと思います。死者からのメッセージ、死につつあるものからのメッセージ、つまりダイイング・メッセージを聞き取る能力が、人間の人間性を基礎づけている根本的な能力だと思います。(p.194)

なるほどですね。私たちは死者からのメッセージを聞くことによって、倫理的な判断をしているのです。
目の前にいる人に「なぜ人を殺してはいけないのですか」と平然と問える人がいたとしても、死者にそれを問う人はいないでしょう。


内田先生の「死」をめぐる考え方は、上の持論が基礎となっています。
では「身体論」については・・・これがなかなか論旨を定めることが難しいのですが、それも当たり前で、要は「脳でわかろうと思うな、身体でわかれ」とおっしゃっているわけです。

本も身体で読め。口で話していることだけでなく、非言語メッセージを身体で読み取れ。
脳で「わかった」と思ったことは、「わかった」と思った瞬間からスルリと逃げてゆく。だから身体でつかみ取るしかない。
「禅」と同じですね。偉いお坊様が書かれた禅の本を何冊読んでも、まず坐らなければ「禅」がわかったことにはならない。


内田先生は武道家でもありますが、時間をずらすことによってモノにする、という武道家ならではの視点が大変おもしろかったです。
今起こっていることを、自分だけ未来に時間をずらして捕らえ直すと、今起こっていることが過去になる。これができれば相手をモノにできる、というのです。

K-1の武蔵さんの挿話がおもしろいです。
内田先生が「K-1みたいなリアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどういう反応をするんですか?」と訊いたところ、「時間をずらして対処します」と即答されたとのこと。
時間をずらすというのは、相手からパンチを一発受けたその瞬間に、逆に自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」ことで、殴られている「今」を「過去」にしてしまって対処する、ということなのだそうです。
うーん、すごい。

少し前に読んだ池谷祐二さんの著書にも、脳は未来に時間をずらしてから現在を捕らえている、ということが解き明かされていますが、脳も身体も同じなんですね。このことを、池谷氏のように脳科学を突き詰めるという手段ではなく、自分自身の「身体感覚」を高めることで解明してしまった内田先生、やっぱり半端ないです。


ところで、装丁をみて、なんか前もこういう本読んだことあるな・・・と思ったら、「べてるの家の『非』援助論」と同じ。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」だったんですね。
同シリーズの他の作品のタイトルを見てみると、かなり魅かれます。「ケア学」「気持ちのいい看護」「感情と看護」などなど。
本書を同シリーズに入れたことといい、かなり斬新でアグレッシブな匂いがします、「シリーズ ケアをひらく」。注目したいです。

内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」 ★★★★☆


内田 樹「最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)」

きっかけ=piyoにお借りして。

ちょい久々に、内田先生です。
書名の「最終講義」のとおり、神戸女学院大学の現役教授を退任されるにあたり、最後に壇上に立ってお話された講義録から始まり、その他5本の講義録を併せて一冊にしています。

やはり内田先生のライブ(講義)は、ものすごくパワーがあるのだと思います。講義録を読むだけでもビンビン伝わります。
一本勝負の緊張感。
毎度長い枕から、多くは唐突なたとえ話、そして徐々に主題に近づいてくる、と思ったら息抜き、そしてラストスパート、最後の落ちまで、まったく飽きさせないし、ライブを聞いている側のメンバー構成(学生だったり、同窓会のおばさまだったり、教育委員会のおじさまだったりする)によって、トーンを変えたりその場の空気を読んでの間合いも感じられます。

ブログ転載ものとは異なり、初めてウチダ節を聞く人がいるという前提で話が構成されているので、膨大なウチダ本の最初の一冊にもうってつけだと感じました。


計6本の講義録のうち、特におもしろかったのは以下の4本。

Ⅰ 最終講義(神戸女学院大学)2011年1月22日

これは正直、わたしが同校出身であることが理由で感慨深かったです。私が同大学2年生のときに内田先生は赴任されたらしいのですが、在学中はまったく存じ上げず、もちろん講義も受けなかったことが悔やまれてなりません。
しかし、内田先生自身の経験として語られている、入学式がキリスト教の礼拝形式で行われ賛美歌から始まったことに驚いたこと、茂洋チャプレンの祝福の言葉の宛先に自分自身が含まれていることを感じたこと、陰影深いヴォーリズ建築の隠し階段やトイレに驚いたこと、私自身も鮮やかに思い出すことができます。
本書のおかげで、あの大学を選び、卒業してよかったと、改めて(というか初めて)感じることができた次第です。


Ⅲ 日本はこれからどうなるのか?-”右肩下がり社会”の明日(神戸女学院教育文化振興めぐみ会講演会)2011年6月9日

この講義が行われた「めぐみ会」というのは、我が母校の同窓会ですが、笑うくらいすごい集まりです。
女学院卒業ということが大変なステイタスになった時代に生き、三代続いて女学院、というようなお家柄に誇りを持ち、今もそれをアイデンティティにされているご婦人がたくさんおられます。
もちろん私自身は縁がなく、会合なども一度も出席したことがありませんが、当時の学内にも「めぐみ会」の建物があり、品のよいおばさま方が大勢行き来されていたことを覚えています。
その「めぐみ会」の講演で、なんと「北方領土」のテーマから話し始める内田先生。やりすぎです(笑)

なぜ我々は北方領土問題について無知すぎるほど無知なのか、という切り口から、沖縄基地の核保有の可能性に言及し、と思うと母親と父親の育児戦略のちがい、自殺率は平和な時代に上昇する、教育立国をめざすべき、とまあ、言いたい放題でございます(笑)
この一章だけでもかなり読み応えがあります。「めぐみ会」の講義だけで終わらず書籍になってよかったなあーと、しみじみ思う次第です。


Ⅳ ミッションスクールのミッション(大谷大学開学記念式典記念講演)2010年10月13日

大谷大学とは、関西の人なら誰でも知っている仏教大学です。
内田先生の教育論がぎっちり詰まっている一章で、読み応えあると共に感動しました。

『教育というのは、「私にはぜひ教えたいことがある」という人が勝手に教え始める。聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。』(p.171)

学びたい人(つまり市場でいうところの「顧客」)のご要望に沿って、供給側である学校が教育内容を変化させるなど、内田先生に言わせれば本末転倒なわけですが、今はこちらの方が主流の考え方であることを鋭く指摘し、警鐘を鳴らしています。

『「ミッションスクールのミッション」というのは、要するに旗印を鮮明にするということです。特に宗教系の大学の場合、ここ数十年の間に建学の理念がだんだん希薄化していき、クリスチャンのミッションスクールでも、宗教儀礼や必修のキリスト教学をなくしていったり、礼拝の参加義務を緩和したり、入学式・卒業式から宗教色を払拭していったりする傾向があります。「だって、宗教色を払拭しないと、志願者来ませんから」ということを平然と言う人がいる。率直に言って、そういうことを言う人に、大学教育には関わって欲しくない。』(p.188)

『大谷大学もいいじゃないですか、このサイズではなくても。高々と旗印を掲げて、それで学生が減っていったら減っていったでいいじゃないですか。浄土真宗の学校なんか厭だなあというような学生に来てもらうこと、ないですよ。学生数が減ったら、減ったなりにダウンサイジングして、寺子屋みたいなものになっても構わないじゃないですか。教育機関の真の価値は財務内容でも在学生数でもなく、そこでどのような人間を生み出したかということで考量するしかないんですから』(p.188)

感動です。拍手喝さいです。
しかし大谷大学の先生方は、大変な人に講演をお願いしてしまいましたね(笑)
関西随一のミッションスクールとして、ぜひとも踏ん張っていただきたいと思います。


Ⅴ 教育に等価交換はいらない(守口市教職員組合講演会)2008年1月26日

内田先生の「教育に市場原理主義を持ち込むべからず」持論が、一章で簡潔にわかってよいです。
内田先生はずーーーーっとこのテーマにこだわって、色んなところで主張を展開されていますので、知っている人にはおなじみの内容ですが、内田先生の教育論はどれから読めばいいのと言われれば、この一章はピッタリだと思います。

というわけで、6本の講義録のうち4本が必読という、大変内容の濃い一冊でした。

内田 樹「街場の教育論」 ★★★☆☆

内田 樹「街場の教育論」

きっかけ=前から読みたいと思っていたためAmazonで購入。

内田本で購入したのはまだ三冊目(あとは全部piyoから借りた)、内田先生スミマセン。

久々に街場シリーズを読んだが、やはりブログ転載本とは異なり、同じテーマが一気通貫で書かれているので広がりも深みもある。
以下備忘録として印象に残ったセンテンスを。

・教育改革のような大きな問題は、全員が「誰かの仕事(=責任)だ」と思っており、自分の仕事(=責任)だと思わない。
・教育の主体者は「教師と子ども」であり、その改革は、現場の教師に、オーバーアチーブを促すような環境を創出するしかない。
・大人から子どもへのメッセージはひとつだけ。「成熟せよ」。
・教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。「成熟は葛藤を通じて果たされる」。
・教師は「坊ちゃん」的六型でよい。昔の教師がすばらしかったわけではない(二十四の瞳・大石先生の話)。
・師が師をを仰ぐ姿を仰ぐ、入れ子構造でしか「学び」は起動しない。教師と子どもの関係に、教師の師が存在する。
・「自分らしく生きる」の日本をあげての大キャンペーンの結果として、「子どもたちの砂粒化」が起こり、連帯せず個々に判断し行動する、大人から理解できない個人が育っている(こうなったのは我々の責任である)。就職活動でうまくいかないのは当たり前。
・音楽の重要性。「ことば」は暗記してからあとで意味づけされるのであり、「思い」があってから「ことば」が出るのでは、「ことば」が貧困になるのは当たり前。

(ひとりごと)ようやく、ブログを立ち上げた日にレビューが追いついた。。。

内田 樹「こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)」 ★★☆☆☆

内田 樹「こんな日本でよかったね―構造主義的日本論 (文春文庫)」

きっかけ=piyoに借りて

今回お借りした内田本もこれが最後の一冊。
こちらもブログ転載系で2006年~2007年のもの。

小泉内閣の長期政権から安倍→福田→麻生と続く中、「何もかもぶっこわして再構築せよ」というスローガンにもろ手を挙げて追随し「弱者による弱者バッシング」で思う存分ストレス発散させたあと、「格差社会」と言い始めた日本人に対して、「何も全部ぶっこわさなくても、使えるところは使って、修正すべきところは修正した方がよかったんでは?」「日本が平和だからこうなってるんだけど、何か問題でも?」という内田節をきかせる。

最近のブログでも「『待ったなし』を待っていただけませんか」というタイトルがあったけど、そういうスローガンに惑わされず頭を使って考えてよ、というメッセージである。

また、年金問題にせよ高校必修授業未履修問題にせよ、犯人探しをするのではなく、段階として①そもそも無理②やり始めた人③それに無責任に続いた段階 に分けるとすれば、②から③に移った段階が最も悪質だという指摘はそのとおりだと思う。

win=winならずルーズ=ルーズ・ソリューションというのも面白かった。

内田 樹「知に働けば蔵が建つ (文春文庫)」 ★★☆☆☆

内田 樹「知に働けば蔵が建つ (文春文庫)」

きっかけ=piyoに借りて

ブログ転載本。
2004年~2005年に書かれたものなので、小泉首相の靖国参拝に対する態度、中国での反日デモの激化に対する考察から、以前も読んだが「儒教圏」構想(北朝鮮の政体瓦解から始まるという予測は初めて読んだ)などもある。

武道家としての話もおもしろい。
道場を楽屋、それ以外を表舞台として意識し、師匠からの「持参せよ」という一言に足が震えたという話はいかにも武道精神であり印象深かった。

武道精神は禅とも深く通じるだろう。
武士道は語れない、禅も語れない、が、語らずには出現しない。

内田 樹「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)」 ★★☆☆☆

内田 樹「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)」

きっかけ=piyoに借りて

もう内田先生の本はどれを読んでもだいたい同じと思うようになってきた。
こちらは珍しくブログ転載ものではなく、原稿依頼があって執筆したものをまとめたものらしいが、テーマもばらばら、文量もバラバラ、確かにややタイトな印象はあったが慣れもありスルスルと読む。

冒頭の一説に「岡田山キャンパスは日本一美しい」から始まり、ちょっとうれしい。
女子大有用論は「女性は時の守護者」ということで、ほんとか?とちょっと強引な感じ。

恒例のまえがきが「まえがきが長くてすみません」というのもまた内田先生らしい。
ほんとに毎回枕が長すぎますよ、内田先生。でもその話、結局必要なんですが。

内田 樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)」 ★☆☆☆☆

内田 樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)」

きっかけ=piyoに借りて

珍しく内田先生の本でほとんど共感できなかった一冊。
初の「語り下ろし」だそうだが、タイトルもなんか浅ましいと感じたが、中身もカドカワ文庫ぽいというか、この作品が女性にウケたというのも含めてなんだかなあという感じ。

人間関係に疲れたら無理せず抜けだせとの主張だが、それは理解し合えない他者との共生こそが人間の本当の生きる意味であるという彼の自説とも、核家族の危険性とも矛盾している。

政治家先生(小沢さんとか)を切って捨てるような物言いもあり、彼らの言葉を本当に理解しての批判か、であればどの言説を批判しているのか明確にしてほしい。
でないとTVのマスコミと同じだ。

内田 樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」 ★★☆☆☆

内田 樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」

きっかけ=piyoに借りて

賢太の毒が頭にまわっていたのだが、内田先生でちょっと常識モードに戻る。
今回もブログ既掲文の寄せ集めなので、テーマに沿った一貫性はない(テーマは後付け)。

今回も2か所、どうしても頁角を折らざるを得ない部分あり。
メディア論にも出てきたTVに対する新聞の批判性のなさ、メディア界の内側にいながら「知らなかった」顔をする恥知らずな態度への怒りと嘆き。
「わたしはそれにコミットしていませんよ、だって知らなかったんだから」という言い訳の遣るかたなさ。

「『それでもテレビはないよりはあった方がいいものだから、10%の貴重な情報を自ら判断し受け取るべし』 頼むから誰かそう言ってくれ」という叫びは悲痛だが、それでも既存メディアに期待も残してるのかなと感じる。

もうひとつは「愛神愛隣」。おお久しく忘れていた我が母校建学の精神。
自分を愛するように隣人を愛せとは、在学中はひょっとも疑問を持たなかったが、自分を愛するように隣人を愛するとは如何なる也。

自分を愛するとは自分が未熟、無知であることを知り、未熟と無知を自分本来と弁えて(本当の自分はこうじゃない、とは思わずに)、許容する(それとして生きる)ということ。
それと同じように隣人を愛するとは、他者の無知、未熟、矛盾を許し、それとともに生きるということ。

内田 樹「街場のマンガ論」 ★★☆☆☆

内田 樹「街場のマンガ論」

きっかけ=piyoに借りて

ブログの寄せ集めなので、網羅性はなく、内田先生の好きなマンガをネタにしたと日本人と日本語論、という感じ。

内田 樹「下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)」 ★★★☆☆

内田 樹「下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)」

きっかけ=piyoに借りて

最初の経験が「労働」でなく「消費」であるために、
「就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している」現代の子どもたちは、
すべてもののを等価交換しようとする態度をとる。

勉強するということの対価を見いだせない子どもたちは、積極的に「学び」から逃走する。
同じく労働に対する対価(=給与)が等価ではないため、積極的に労働からも逃走する。

これは日本の均質化社会が米的個人主義(=自己責任主義)を礼賛したために生じたシステムの弊害であり、
弱者必負→孤立化が進むことによって社会が階層化する(弱者は弱者としてしか生きてゆけない、というか、死ぬしかない)。

現在の教育の荒廃、ニートの増加について、確かにそういう側面もあるとは思うが、
学者的な分析という感も否めない。

子どもの不勉強は、友人同士の階層化とその階層内でのいじめの陰惨化によって、「教師側」ということを察せられるわずかな身振りも許されない学校社会が生んだ弊害ではないかと思うがどうか(内田氏の「等価交換説」よりも)。

ニートを助けたいとは思わない(やはり自分のせいでしょと思う)私は、やはり米的価値観に脳味噌が冒されているのだろうか。

内田氏は「ニートは労働して少ない対価を得るよりもニートである方が自己に対する納得性が高いためにニートという生き方を選んでいる」と論じているが、
ニートが自己責任として選択的にニートになっているとは思えない。
社会のせい、まわりのせいでニートになったと思っている(自分の人生を自分で引き受けない態度)のではないだろうか。

 

※後日付記:読後すぐは上述のような感想を持った私だが、それから半年の日常生活を送っているうちに「下流志向」の指摘は鋭いと感じることが多々あった。
今では内田先生の等価交換説なしには教育荒廃とニート問題は語れないというのが私の意見です。