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「新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)」 ★★★★☆

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

きっかけ=浄土真宗への興味からネットで購入。

読もうと思いつつ手が出せていなかった「歎異抄」。理由のひとつに、どれを読めばいいのかよくわからない、というのがあったのですが、いろいろと書評などを見て、結局こちらを購入。選んでよかった、そして、読んで本当によかったです。以下、大変長々としたレビューになりますが、ワタシの発見と理解を書き留めたく、なにとぞご容赦ください。



まず、「歎異抄」って親鸞が書いたものじゃないんですね。そんなことさえ知らなかった私。。。著者は親鸞の門弟のひとり、唯円であるという説が有力らしい。そして、「歎異抄」とは、「親鸞が説いた『真実の教え』ではない、『意義の教え』を嘆いた書付け」とでもいう意味です。内容は前編、後編にわかれていて、前編では親鸞から直接受けた『真実の教え』を語り、後編ではその真実の教えにそむく『意義の教え』を挙げ、親鸞の発言を拠りどころにして批判しています。これは本当によくできた構成で、前半で浄土真宗の本義の知識を得た上で、後半の意義への批判を知ることにより理解が深まります。

浄土真宗の教えでもっとも有名な一説は、「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものでしょう。前編の第三条冒頭に出てきます。現代語訳では「善人でさえ浄土に行けます。まして悪人が行けないことはありません」となります。反対じゃなくて?そう、反対ではないことが、浄土真宗が浄土真宗である意味です。

この一説を、言葉では理解し、意味も断片的な知識でなんとなく飲み込んではいましたが、やはり最後のところで何か腑に落ちない、しこりのようなものがずっとありました。「『悪人』というのは普通に我々が考えるところの『悪人』ではなく、自分のことを『悪人』だとわかっている人のことだ」というような解説をよく聞きますが、親鸞はそういうことを言っているのではなく、本当に悪人を救うと言っているのでないか、と漠然と感じていました。それが、「歎異抄」を読んで、やっと本当に理解できたように思います。

世間の人は普通には、つぎのようにいいます。「悪人でさえ浄土にいけるのだから、善人が行けるのはあたりまえである」と。この考え方は、一応もっとものようですが、阿弥陀さまのお救いの趣旨に反します。
その理由は、自分の努力で善い行いをつみかさねて浄土に生まれようと心がける人は、阿弥陀さまのお力におすがりしようという心のない人ですから、阿弥陀さまに救われて浄土に行くことはできません。しかし、そういう人も、みずからの善をたのむ心をひるがえして、阿弥陀さまのお力におすがりしておまかせすれば、浄土に生まれることができます。
欲望をすてることができないわたしたちは、どのような修行をしても結局は不十分に終わり、迷いの世界をはなれることはできません。そのような人間をあわれにお思いになって、助けようという願いをおこされたのが阿弥陀さまです。ですから、阿弥陀さまの本意は悪人を救って仏にするためですので、ひたすら阿弥陀さまのお力におすがりする悪人こそ、まず浄土に生まれる資格を持っています。(p.79)

悪人をあわれみ、悪人を救いたいというのが阿弥陀の本願だから、悪人がまっさきに救われるのは当然である、ということなのですが、そこから一歩踏み込んで、善人というのは自分の力で往生したいと考える者であるため、阿弥陀の救いはないこと、さらに、これから何度も何度も出てくるのですが、私なりの理解で言うと、『わたしはアホでバカで根性なしで自分勝手にしか考えられない悪人だから、阿弥陀さまに救われるに違いない』という考え方を一徹に突き通すことが、浄土真宗の本義である、ということがわかるのです。

誰でも自分のことを、少しはマシな人間だと思いたいのではないでしょうか。または、善いことをひとつづつつ積み重ねて、マシな人間になりたいと思っているのではないでしょうか。先祖を供養する、病人や弱者を助ける、そういうことを通じて、善い人間になりたい。浄土真宗はそういう人に対して、「そう思うなら、どーぞがんばってください。バカで根性なしの私にはとてもとても。比叡山の賢いお坊さんが自分の力で浄土に行くにはどうすればよいか教えてくれますから、そちらに聞いてください」と、突き放しているのです。

私の理解では、「悪人」とは「自分のことを悪人だとわかっている人」のことではなく、本当の極悪人も含めての「愚か者」であり、そのことを説く浄土真宗のお坊様は「自分を愚か者だと言える人」だと思います。

浄土真宗は、ご存知のとおり、「念仏」を薦めます。一度念仏すれば、阿弥陀がなんとしても浄土に行かせようと追いかけてきて、たとえ逃げても後ろからはっしと抱きしめて離さない、とまで言っています。この「念仏する」こと以外に「善行」はなく、さらに言うと念仏さえも「善行」ではありません。阿弥陀の働きかけにより、我知らずつぶやいてしまうもの、つまり「他力」です。「他力」とは、他(=阿弥陀)の力にすがることだけでなく、自らの力をあきらめ、たとえ善い事を積み重ねても報いはないと悟ることだということが、やっとわかったのです。究極にストイックな教えだと感じます。



わたしは禅宗のお寺に通っていたことがありますが、同じ仏教でも禅とは正反対の教えです。初めて禅寺で法話を聞いたとき、こういう話を聞いて感動しました。
・私たちは誰でも、仏様と寸分違わぬ、鏡のように澄み切った心を持っている。
・仏像に仏があると言って拝むのはおかしい。仏は自分の心にある。
・自分の本性はそのまま仏様と同じ。「自性本来清浄心」に目覚めなさい。
・自分の中に清浄心を見つけるために坐禅しなさい。
これは、親鸞から言わせると「自力で浄土に行こうとする人」のことです。


では仏教の教祖である釈迦はどう言ったのか。わたしも勉強不足で詳しくは理解していませんが、少なくとも阿弥陀さまにすがって念仏すれば浄土に行けるとは言っていないはずです。「阿弥陀さま」というのはどこから出てきたのでしょう。法然や親鸞が突然言い始めたことではもちろんなく、さまざまな経典にも登場します。このルーツを解明してみたくなってくるのはわたしの性なので、そのうち調べてみたいと思います。


さて話を戻して、わたしがこれまで疑問に感じていたことのもうひとつに、「本願ぼこり」があります。「本願ぼこり」とは、阿弥陀の本願に甘えてつけあがり、「念仏ひとつで浄土にいけるのだから、どんな悪いことをしても構わない」という解釈です。これについて親鸞はどう説明するのか、と前々から興味があったのですが、これがまたわたしにとってはコペルニクス的展開でした。歎異抄では、この「『本願ぼこり』」は悪い考え方である」という主張を、「嘆かわしい意義」としているのです。えええっ!!!じゃあ、念仏ひとつで浄土にいけるなら、どんな悪いことをしても構わないんですか!?


これに対する解説が深い。というか、非常に仏教的です。
わたしたちは善いことをしようと思っても簡単にはできない。同じように、悪いことをしようと思っても簡単にできるものではない。善いことができるのはその人の業(=宿命)であり、悪いことができるのもその人の業である。だから、人は「念仏ひとつで往生できるから悪いことができる」のではない。

願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。されば、よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに、本願をたのみまひらすればこそ、他力にてさふらへ。(第十三条)

(現代語訳)
阿弥陀さまの本願を誇り、それにあまえてつくる罪も、過去の多くの縁によるものです。だから、善い行いも悪い行いも、すべては過去の縁によるものと考えて、それにとらわれることなく、ひとえに仏さまの本願力をおたのみすることが、他力ということです。(p.98)

親鸞は、本当に、悪人こそを救いたかったのだと思います。平安末期から鎌倉時代初期、そのころの京都は戦闘や暴動が絶えず、度重なる飢饉で餓死にする人が後を立たず、道端には動物や人間の死体が転がっており、鴨川には打ち捨てられた死体から身ぐるみをはがすことを生計にして暮らしている人がいる。貧しい家族は、病気の年寄りに早く死んでほしいと思ったでしょうし、家族全員が飢えていたら、その年寄りを殺して食べたかもしれません。年寄りがいなければ、末の子だったかもしれません。そのような人々は、自分のような極悪人は地獄以外にいくところはないと思っていたでしょう。この世が地獄であればこそ、あの世の地獄もリアルに想像できたでしょう。親鸞はそのような、生きるためには悪をなさざるをえない、そういう人に、あなたは救われる、念仏ひとつで救われる、と信じさせたかったのではないでしょうか。



私の生家は真言宗で、浄土真宗の作法は知りませんが、位牌もなく、四十九日もせず、お盆もお迎えしない、と聞いたことがあります。亡くなったら即成仏できるのですから、そのようなものは必要ないのでしょう。しかし、必要ないと言われても、位牌もなくお盆の供養もなければ、どうやって死者とコミュニケーションを取ればよいかと不安を覚える人もいるでしょう。極めてストイックな教えだと、改めて感じます。

以上、長々としたレビューにお付き合いいただきありがとうございます。何年も前から読んでみたいと思っていた「歎異抄」。読んでしまえばするすると2時間もかからなかったと思います。これから読もうとする方のために、本書のオススメの読み方を書き付けて終わりとします。本書は「歎異抄」の原文と現代語訳が、併記でなく別々に掲載されています。まず最後の「解説」をざっと読んで、親鸞と歎異抄についての知識を得てから、最初に戻って原文、中ほどにある現代語訳を、一条づつ読み進めるとよいと思います。

「親鸞 生涯と教え」 ★★☆☆☆

親鸞 生涯と教え

きっかけ=浄土真宗への興味から入門書を探し、ネット検索で見つけて購入。

変わった本を買ってしまいました。800円って安いな~と思いながら、でも「東本願寺出版部発行」ってことは、色気も何もない正統派だろうし、浄土真宗の教えを最初に学びたい人向けだろうと思って、ネットで購入しました。すると、これは教科書ですね。おそらく、大谷大学の中等部で授業に使われているのではないでしょうか。

内容は120ページほどで、親鸞の誕生から比叡山での修行を経て法然に帰依し、越後への流刑生活、関東での教化活動、そして京に戻って執筆を続け、入滅までを追う形で、親鸞の教えを語っています。


親鸞は西暦1200年頃、鎌倉時代に生きた人です。日本では最も信者が多い浄土真宗の開祖なので、なんとなくもっと後代の人のような印象があるのですが、生まれたのはまだ平安時代であり、そう考えると本当に昔々の人だなあと思います。親鸞の教え自体は脈々と受け継がれていても、親鸞その人自身のことはあまりわかっておらず、親鸞の妻・恵信尼が子どもたちに書き送った手紙などからわかることを元に、親鸞がどのような人生を送ったのか、綴られています。


中学生向け(おそらく)なので、かなり読みやすい内容及び文体ですが、流刑中の越後での生活の描写などは特にしっかりとした記述で、大人が読んでも考えさせられるものでした。

文字を読み書きすることも知らず、厳しい環境の中で、萌え出ずる雑草のように生きる人々の姿である。あるものは海や川で漁を行い、またあるものは田畑を耕して作物を育て、誰もがその日一日を必死に生きようとしていた。そのような姿を目にした親鸞は、あらためて人間が生きるということの厳しさを思い知らされたのである。そればかりか、生き延びるためにはたとえ悪事とされていることであっても、あえて行わなければ生きていけないという現実は、親鸞にとって大きな衝撃であった。(p.74)

なんとなく、この越後での流刑生活を経て、親鸞の教えが唯一無二のものになったのではないか、ということが想像されます。


教科書ならではのものとしては、途中にちょいちょい「視点」というコーナーがあって、「私たちは多くのつながりの中で生きている。親しい友だちとの関係もあれば、恋人との関係もあるだろう。(中略)何によっても壊れない確かな人間の関係は、どのようにしたら生まれるのだろうか。今一度考えてみてほしい。」というような文章が出てきます。ちょっと笑ってしまわざるを得ないのですが、まあ学校の授業ではこういうテーマで、話し合ったり文章を書いたりしているのでしょう。笑ってはいけませんね。


ありがたいことに、この一冊でだいたいの親鸞の人生はわかりました。というわけで、このあと、いよいよ「歎異抄」を読みます。

五木 寛之「親鸞(上)(下) (講談社文庫)」 ★★☆☆☆

五木 寛之「親鸞(上) (講談社文庫)」

五木 寛之「親鸞(下) (講談社文庫)」

きっかけ=最近「親鸞-激動編」の新聞広告を目にして、既刊の文庫版の方を近所の書店で購入。

五木氏の著作は以前「他力」を読んだがあまり印象に残っておらず、なんとなく合わなかった気がしたのだが、今回も同じような印象が残った。
バリバリの大乗仏教の、しかも親鸞聖人の物語であり、かなり個人的興味のあるジャンルなのだが、いまひとつ乗り切れないのは五木氏の筆が写実性よりエンタテインメント性を重視しているからだと思う。

この章では親鸞の生い立ちから叡山修行時代を経て下山のあと法然に師事し、市井の人々に念仏即往生を説きはじめるが徐々に浄土宗への弾圧が強まり、法然が土佐、親鸞が佐渡に流刑となるまでが描かれている。

そもそも聖人物語なるものは真実と伝説の区別が難しいが、さらに五木氏による大胆な創作も追加されているので、どこまでが事実なのかさっぱりわからない。
残虐極まる黒面法師が親鸞の妻、紫野の両目を針で潰そうとした瞬間、どこかに潜んでいたツブテの弥七が放った小石が針をはじきとばす、などの演出は、これで盛り上がる人もいるのかもしれないが、私などは興ざめてしまう。

法然に帰依することになったきっかけ(後に妻となる紫野が救世観音に化身し吉水に導く)も、半分は五木氏の創作だが、そこが創作であればなおのこと、矛盾を乗り越え身も心も帰依するに至った過程はもっともっと矛盾に引き裂かれる姿を丁寧に描いてほしかったし、叡山では自らの煩悩を乗り越えるため、異常な激しさで身を削り行を修め、欲望も振り切ってきたにも関わらず、妻帯するときのその安易さは何?とやや肩すかしだったり。

有吉佐和子さんが描くような、写実的な親鸞を読みたいんだけどなあ・・・と、ないものねだり。